(7)
「違う、違う、違うの! ほんとに違うの!」
私は逃れるように腕を振るう。頭が痛い。悪夢だ。何から何まで。全部そうだ。これは悪夢。そうに決まってる。
「やばい! 警察呼べ警察!」
「救急車も!」
「包丁持ってるぞ、逃げろ!」
周りの悲鳴がどんどん大きくなる。私という危険人物に向けられた悲鳴。
悲鳴をあげたいのはこっちの方だ。
どうして、どうして。
私の右手に握られた血塗れの包丁は、どれだけ振り払っても私の手から全く離れてくれない。
「やめろ美咲! 分かったから、包丁を離せ!」
「離れないのよ! 取れないの!」
「馬鹿な事言うなよ! どうしても俺を殺したいってのかよ!」
「違う、違う!」
いくら喚いても包丁は手についたままで離れず、事態は一向に良くならない。
『み、……』
痛む頭の中で何かが聞こえたような気がした。いよいよおかしくなり始めてきた。
どうしたらいい。私は。いや、もう……。
――どうでもいいか。
私は両手をぶらんと降ろした。
「……美咲?」
幸せになろうとして、結果幸せどころか、今や殺人犯だ。
全てが意味不明で無茶苦茶だけど、真紀の死体は相変わらずそこに寝そべっているままだ。
私が殺したんだ。この包丁で。信じられないが、それが事実なんだ。
終わりだ。人を殺して幸せになれるわけなどない。
『ア、ナタ、ノコウフク、ド、ハ、レ、レレレレ、0点、デ、デェス』
壊れた機械人形のような声が頭に響く。
「0点だってさ」
もう何も残っていない。幸せどころか、何もかもだ。
私は握った包丁を、裕の方へと向けた。
「裕ももう、いいでしょ? 幸せとか、どーでも」
いらない。全部全部。
「やめろ……やめろよ、やめろ!」
私は裕に向かって歩き出した。
「うわ、うわああああああああああああああ!!」
裕は慌てて逃げだした。その後を全速力で追いかける。
“俺に近づくな”
あの言葉を聞いた瞬間、自分の中で大きく何かが崩れた。
取り返しのつかない破壊の言葉。
ああ、終わった。
でも中途半端だ。終わるなら、しっかり終わらせよう。
「あああああああああああああああ!!」
裕が大声で喚いている。こんなみじめで情けない姿もあるんだ。どこかでそんな彼を見れて嬉しく思っている自分がいる。異常だ。でも、何故だかそう思えた自分に納得し落ち着きすら覚える。
――待ってよ。終わらせるだけなんだから。
めちゃくちゃに腕や足を振り上げながら、裕は逃げ惑う。彼はそのまま交差点へと走っていく。
「あ」
待って。そう言おうとしたが、自分も走っているせいで、激しい呼吸でうまく喋れなかった。もちろん彼に私の言葉は届いていない。彼のスピードは落ちない。
――待って! 赤信号だよ!
心の中でだけ思いっきり叫んだ。でもそれは、心配で出たものではない。
私にとって不本意な結果になってしまう。
次の瞬間、けたたましいブレーキ音とクラクションが鳴り響いた。ようやく裕のスピードが落ちた。
だが、間に合わない。
ばりっ。
一瞬、裕の姿がまるで電波障害のように歪んだ。
そして次の瞬間、激しい衝突音がした。アニメのように吹き飛ぶ裕の姿。
ごじゃ。
肉のつぶれる音がした。
「待ってよ」
足を止めた頃、ようやく言葉が出た。
「待ってよ……」
身体の力が抜けていく。
終わった。終わっちゃった。
終わらせも、させてくれないんだ。
「はは」
乾いた笑いが漏れた。
幸せに見放された者は、なに一つ思い通りにいかないのね。
救急車やパトカーのけたたましいサイレンが重なる。
――幸せなんて、やっぱりくだらない。
その場でぼーっと立ち尽くしていると、両脇をぐっと誰かに掴まれた。ちらりと見ると、どちらも警官だった。そしてそのまま、私はパトカーの中へと放り込まれた。
『みさき』
頭の中で、誰かの声がした。
『みさきは、わるくないんだよ』
頭痛の次は幻聴か。
まあいい。いずれにしろ、もう全て終わりだ。
さようなら、私の幸せだった人生。