(6)
「美咲。お前何でここにいるんだ」
私の存在はどうやら予想外だったようだ。後をつけられている事にも気づいていなかったらしい。だが、それにしても裕の様子は落ち着いたものだった。まるでいつかこうなる事が分かっていたかのような、それどころかいつかこの場面を見せようと思っていたんじゃないかと思えるほどの余裕すら感じる。
そんな態度が気に食わない。なぜもっと焦らない。これぐらいの事など大した事でもないというのか。
「せ、先輩……」
そして面白いぐらい対照的にきょどきょどと動揺する真紀。裕の態度とあまりにもかけ離れすぎて、私が求めていた本来の反応のはずなのに、それが鼻について結局うざったらしさが増しただけだった。
「裕、何してるの?」
私の方が動揺している。それを裕に勘づかれないようにぐっと心を押さえながらゆっくりと喋る。
「こそこそつけて来るぐらいなんだから、見当はついてるんじゃないのか?」
裕は感情を崩さない。それどころか。横で事態についていけず、挙動不審になる真紀の肩をそっと抱きしめてみせた。これが答えだと言わんばかりに。
「最低……」
腹の底に煮えたぎっていた怒りが、血流と共に脳へと昇っていく。
許さない。やっぱり勝手に幸せになろうとしてたんだ。だから私がいくら頑張っても幸せになれないんだ。
「どっちがだよ」
尖った彼の言葉が真っ直ぐに飛んでくる。
「急に幸せ幸せって騒ぎだしておかしくなって。家の金好きに使って。セレブ崩れの恰好してるくせに、その実、家庭はと言えば貧乏そのものだ。雅にも与えてやれるはずの贅沢を奪って、何が幸せだ。それでよく俺を最低呼ばわり出来るな」
真紀の肩に置いた手を離し、じわじわと裕がこちらに歩み寄ってくる。その顔は、私とはまた別の静かで激しい怒りを湛えている。
裕のあまりに無表情な怒りは、私に恐怖を与えた。こんな顔を出来る人だったのか。私の知らない裕の一面を見た気がした。
「幸せ。幸せ。幸せってなんだ? 昔は幸せだと思ったよ。昔のあの幸せのままいたかったよ。幸せだったのに。お前が薄っぺらいブランドものの幸せに手を出したりしなければ、ずっと幸せでいれただろうに。そんな上っ面だけ着飾って何が幸せだ。くだらない」
くだらない。それは私がずっと、裕と出会う前から抱いてきた幸せへの侮蔑と同じだった。その言葉が今、私自身に向けられている。あれほど毛嫌いしてきたものに、自分自身が今やそうなっている。
違う。そんなはずはない。それとは全く違う。私が得ようとしている幸せは、そんな汚らわしいものなんかじゃ絶対にない。
裕がどんどんこちらに近づいてくる。私は思わず後ずさりする。だが裕は止まらない。裕の激しい怒り。それはもはや、私に向かってだけではない。
「俺達は俺達のままで良かったんだ。比べるものじゃないんだ。そもそもが間違いだ。幸福偏差値制度だなんて馬鹿げた制度自体がな。お前だってそうだったろ? なのに、その制度にまんまと乗せられ、捻じれていった。そんなお前に用はない。一緒に幸せなど築けない。だからもう、終わりにしようと思う」
「終わり……って」
「真紀はいい子だよ。真っすぐで、ブレない強さと優しさがある。君みたいに、振り回されたり決してしない」
「ちょっと、待ってよ……」
――何言ってるの、裕?
「だからもう」
“俺に近づくな”
ドクンと、ひときわ大きく心臓が鳴った。その瞬間、今までにないほど激しく強い頭痛が襲ってきた。
「……ぐっ、あ……!」
思わず私はその場にへたり込んだ。頭を押さえるが、全く痛みは治まらない。
「先輩、大丈夫ですか!」
真紀がこちらに駆け寄ってきた。
――うるさい、うるさい、うるさい!
仕事をしていた頃は、一番信頼できる人間だと思っていた。なのに、こんなふうに裏切られるなんて。どいつも、こいつも。屑ばっかりだ。
「うるさい!」
私は腕をがむしゃらに振るい、真紀の手を振り払った。
ぴっと、私の顔に何かが降りかかった。
少し温かく、ぬめっとした飛沫のようなもの。
「おい、真紀!」
途端、裕の声が響いた。そこには先程まで私へ見せた冷静さや余裕など一切ない、焦りを含んだものだった。
――なに?
私は痛む頭を押さえながら、頬についた何かを拭った。指先へと付着したそれを目で確かめる。
赤い。
「……血?」
血だ。誰の?
「真紀! 真紀!」
裕の悲痛な叫び声が聞こえる。
私はゆっくりと顔をあげた。
その先に見えたもの。
屈みこみ、必死で真紀と呼びかける裕。そして呼びかけられている真紀は、地面に横たわりぴくりとも動かない。
「真紀?」
真紀の首元から夥しい量の血が流れだしていた。地面を赤黒く染め、彼女に触れる裕の手や服にも、べったりと赤が付着している。
「な、んで……」
どうして、真紀は血を流しているの?
どうして、真紀は動かないの?
まさか、真紀は、死んでるの?
「美咲、お前……」
裕の顔がこちらを向く。その顔はすっかり怯え切ったものへと切り替わっていた。
その顔を最初は期待していた。でも今になってそんな顔をされても意味が分からない。怖いのはこっちの方だ。何故急に真紀はこんな事になってしまっているんだ。
「なんで、殺したんだよ……?」
「え?」
――殺した?
「何、言ってるのよ。私何も……」
「じゃあ、それはなんだよ!」
裕が私の方を指さす。指は私の右手あたりを指していた。彼の指をたどり、視線を右手に移す。
「……は?」
――なによ、これ。
「最初から、そのつもりだったのか?」
気づけば人だかりが出来ていた。周りからざわざわと悲鳴混じりの声が聞こえてくる。そのどれもが、全て私に向けられたものだった。
「違う……違う!」
こんなバカな事あってたまるか。そんなつもりなどないし、第一、こんなもの持ってきてなどいない! なのに、なんで……。
「やりすぎだろ、お前……」
なぜ私の手には、包丁なんてものが握られているんだろう