(3)
「美咲、ちょっといいか」
雅もすっかり寝静まった夜、裕は硬い表情で私に話しかけてきた。私にとって良くない話である事は明らかだ。
「何?」
私の言葉は自然に険を含んだものになった。この所裕との仲も冷えている。それがもろに影響している。
「美咲、お前最近おかしいぞ」
開口一番、裕の口調は喧嘩腰だった。
「は? 何がよ」
私は迎え撃つように語気を強めた。
「何がって? 分からないなら今すぐ自分の部屋をよく見てこいよ。異常だぞ」
ぴきっと血管が疼く。
異常? なんて酷い言葉を使うんだ。優しく穏やかな男だと思ってきたが、どうやら私の認識違いだったようだ。ただ上っ面を優しさで塗り固めていただけで、隠れていた根っこはこの程度なのだ。
私の部屋は今、幸福で満杯になっていた。服、カバン、高価で気品溢れる様々な幸せに満ち溢れている。どれも私にとって大事なものだ。それを、異常の一言で片づける方こそ異常だ。
「お前のせいで生活が逼迫しているのは分かっているよな」
「逼迫? ちゃんと暮らせてるじゃない」
「ギリギリな」
私だって都合よく簡単に何の代償もなく幸せになろうなんて思ってなどいない。実際に金がかかるという当たり前の事ぐらいちゃんと分かっている。
その為に、日常生活における支出は極限にまで抑えていた。水道、電気、食費。娯楽なんてもっての他だ。
「百歩譲って俺はまだいいよ。お前だって家にいて退屈なんだろう。それなりに発散したいという気持ちは分かってやらないでもない。それで小遣いを減らされるのは正直癪だが、まあこの際いいとしよう。でもな、雅にまで被害が及ぶのならさすがに黙ってられない。父親として、夫として、お前をこのままにしておくわけにはいかない」
「……被害ですって? 何よ人を犯罪者みたいに!」
それに、分かってやらないでもない。このままにしておくわけにはいかないだと。
なんて横暴で傲慢な態度だろうか。自分がいかに私の事を理解しているかという事を振りかざすあたりがまた寒々しい。そんな事を言う資格がこの男にあるのか。私の事ばかり責めるが、自分には一切落ち度がないとでも思っているのだろうか。
「だったらあなたに雅を育てられるの? ごはんを作ってあげたり、面倒を見てあげれるの? 出来ないでしょ。あなたはいつも仕事仕事で遅いんだもの。仕事で輝いて充実してるあなたと違って、私の生活なんて退屈なものよ。でも勘違いしないで。退屈を満たす為にしてる事じゃない。私はただ幸せになりたいだけの」
「……幸せに?」
裕は思いっきり顔をしかめた。そう。この認識の差が私達の間にある亀裂の要因だ。そこを理解出来なければ、私達に未来はない。
「そう。あなたと結婚して、雅が生まれて、私はとても幸せに思ったわ。でもね、足りてないの。もっともっと幸せになれるはずなの。だって、私の周りはみーんな私なんかよりずっと幸せなの! それなのに! それなのに私は……!」
そこまで言うと、裕はどかっと椅子に背を預け、冷たい視線を私に浴びせた。
またその目だ。馬鹿にするような、見下すようなその目。
――やめろ。そんな目で見るな。
「何言ってるんだ、お前。そんな事の為にこんなくだらない金の使い方をしてるのか? お前……やっぱり、おかしいよ」
クダラナイ。
ソンナコトノタメ。
オマエ、オカシイヨ。
何なの。こいつ。目の前にいる生き物は何なの?
通じない。全く通じない。
幸せになりたくないと思わないのか。今の、こんな低い幸せで満足してしまえるのか。
――……違うんだ。
違う。私と彼は、もともと別の人間だ。幸せの点数は、合計点数ではない。個人の点数だ。恋人であろうと、家族であろうと、その幸せの評価は個々に下される。
ならば、最初から私の思っている幸せが、裕にとって同じ幸せとは当然限らない。
――彼は私より、何かで大きな幸せを得てるんじゃないか?
満足している。そう、彼が私よりも点数の高い幸せを実は得ているのなら。自分の幸せに文句などあろうはずもない。
「……点数は」
「何?」
私がこんなにもがいているのに、彼がこんなに暢気に構えているのは、十分に幸せだからじゃないのか。
「裕の幸福度は、何点なの」
思えば、今まで彼に点数を聞いた事は一度もなかった。自分の幸せに浮かれて、彼の幸せの度合いに意識をちゃんと向けてこなかった。
遅すぎた。そこに目を向けるのに。そして今更ながら気づいてしまった。違うのだ。私の幸せと、彼の幸せは。
「美咲。君にとっての幸せって、何なんだ」
細く、薄い声。力のない声は、私への呆れと諦めが浮き出ていた。
「君は失ってるよ。幸せの本質を。少し頭を冷やした方がいい」
冷静で、落ち着いている彼に腹が立つ。幸せだからか。十分な幸せがあるから、そんなに余裕ぶっていられるんじゃないのか。
――何があなたに幸せを与えてるの。
それはきっと、私ではない。他の何かだ。
「今の君とでは、関係を続けていく自信がないよ」
裕は席を立ち、バタンと強く扉を閉じた。強い拒絶の音。亀裂がまた大きく広がる音がした。そして。
――そもそも私と、ずっと続けていくつもりなんてあるの?
裕への疑念もまた、私の中で大きく広がっていた。