(4)
「行ってきます」
いつもの朝。裕の優しく眩しい笑顔。
「行ってらっしゃい」
その笑顔に応えるように私も笑顔を返す。夫の出勤を私は今日も気持ちよく送り出す。九条美咲としての生活にもすっかり慣れた。結婚三年目。いまだに私の幸せに翳りはない。
毎日が幸せだ。マイホームも購入し、仕事にますます精の出る裕は、最近依頼も増え以前にも増して忙しそうだ。でも彼の顔に疲労はなく、むしろ生き生きする一方だ。一緒に過ごす時間は減ってはいるが、そんな私のわがままで彼を縛ってはいけない。本音を言えば、もっともっと一緒にいたいというのが正直な所だが。
――それに。
もう三十路も超えてしまった。私自身は専業主婦で彼を支える役目に徹しながら、安定した生活の中に身を置き、幸せを感じながら毎日を過ごしているが、やはり女性として考える事がある。
――そろそろ欲しいな、子供。
最近その思いが日増しに強くなっていく。収入としては子供一人育てるには十分な環境だろう。ちょっと前までは漠然とした夢だったが、そろそろいいんじゃないかと思い始めている自分がいる。ただ彼の思いを確認した事はない。
裕はどう考えてるんだろう。私と同じ気持ちでいてくれてるのだろうか。
*
「ねえ、裕」
「ん? どうしたの?」
テレビに顔を向けたまま、軽い調子で彼の声が返ってくる。が、私の気持ちは全く軽いものではない。そこに温度差を感じ、私は次に用意していた言葉に躊躇ってしまう。
「どうしたんだよ。深刻な顔をして」
沈黙を不安に感じたのか、裕が心配そうにこちらを見てくれた。
良かった。チャンスだとばかりに、私は思い切って口を開いた。
「あのね……子供とかって」
「ん? 子供?」
「う、うん……」
臆する事でもないのに、私は思わず顔を伏せてしまう。
これまでちゃんと子供について話をしてきた事はなかった。でも彼は決して子供嫌いではない。はしゃぐ子供の姿を見て「かわいいな」なんて自然に口に出すぐらいだ。だがその先に“私達の子供”という考えが頭にあったかどうかまでは分からない。
「子供かー」
そう呟いて、彼はしばらくぼーっと宙をながめていたが、やがて私の方に向き直った。
「賑やかになるね」
そう言って笑いながら、私の事を急にすっと抱きしめた。思ってもない反応に私は何も言えず、そのまま彼の胸の中にしゅんとおさまった。
「そろそろ、考えてもいい頃だね」
頭を撫でられながら、彼はそっと呟いた。
――なんだ、一緒だったんだ。
心がほわりと温かくなった。私は彼の背中に腕をまわし、ぎゅっと抱きしめた。
「子供か。頑張る理由が増えるね」
愛おしい。抱えてた不安は取り払われ、胸にまた幸せが溜まっていく。どこまで私は幸せになるんだろう。そんな事を思っていると、私はそのまま彼に押し倒されてしまう。
「え?」
覆いかぶさる彼の顔はあまりにいつも通りだ。だが時に、彼は顔に似合わずこういう大胆さを見せる時がある。
「思い立ったが吉日って言うだろ?」
「だからって、今?」
「早いに越した事はないだろ?」
時にドキッとさせてくれるそんな彼が、私は大好きだ。
『アナタノコウフクドハ、75点、デス』
*
目に入れても痛くない。そんな無茶苦茶な表現が遠い昔から存在しているが腕の中で我が子の穏やかな寝顔を見ていると、その言葉に何の異論も湧かない。
雅。それが我が家のお姫様の名前だ。
「本当に、ずっと見てても飽きないな」
裕はふにふにと雅の頬を突きながら愛おしそうに我が子を見る。
「裕のそのふにゃけた顔も、見てて飽きないよ」
「やめてくれよ、こんな間抜け面より雅の顔を見なよ」
「どっちも捨てがたいの」
九条家に加わった新たな家族。
また幸せが増えていく。全てがあまりに順調で、幸せがとめどない。
「もっともっと俺も頑張らないとな」
「そうだよ、お父さん」
「君もな、お母さん」
でも、まだまだだ。ここで満足してはいけない。ここをゴールにしてはいけない。私達家族はまだ始まったばかりだ。先は長い。今ある幸せに満足してはいけない。
もっと、もっと。私達は幸せになれる。
これまでの味気なかった人生の分、私は幸せを増やさなければいけない。
彼と一緒に。
「幸せになろうね」
二人に向かって、そして自分に向けて私は呟いた。