(1)
「はあーあ」
この世に楽な仕事なんてない。
事務職という求人情報を見つけ、ほどよい仕事だろうと思って応募した。面接の段階でも募集内容に記載のあった通り誰にでもできる簡単な作業ばかりだからと言われ、難なく採用された。
嘘はつかれていない。実際単調な作業ばかりで、確かに誰にでも出来る。簡単な資料作成。良くわからない書類の数字を打ち込んでいく作業。
初めの頃はこんなにも簡単な仕事で給料をもらえるなんてラッキーだと思っていた。だがそれも最初だけで、感覚が日に日に苦へと変わっていくのに時間はかからなかった。そして苦になりだしてからは、無限の牢獄に囚われたような重い気分が続いた。
パソコンに向き合う作業は単調で退屈で、裸眼で支障のなかった生活は瞬く間に眼鏡が必要となった。
だがそんな仕事も、気付けば続けて三年が過ぎていた。
「柊くーん」
――ちっ、またか……。
思わず舌打ちが漏れた。声の先には乱暴にむしり取られたような禿げ頭が、今日も灯りの下でぬらぬらと鈍い光を放っている。
私はわざとらしくため息を漏らしながら席を立ち、ハゲ部長こと田上部長のデスクへと向かう。
「君さー。何年目だっけ?」
――始まったか。
「……三年目です」
陰鬱な気分で視線を床に落としながら答える。この後に待っている言葉たちには、もうだいたいの想像ができている。
「さっき送ってくれたファイルの資料だけどさー。間違ってるんだよねー。まーた。いつになったらこういうのなくなるの? 新人じゃないんだよ? 緊張感と責任感もってやってほしいんだよね。ここって遊び場じゃないんだよ。仕事場なんだ。ん? 分かってる?」
田上部長が私の顔を覗き込むように見上げてくる。鬱陶しいなと視線を僅かに横に逸らす。眼鏡を外してくるべきだった。こんな奴の顔を鮮明に見たくなどないというのに。
「やり直しー。ほんとに頼みますよー」
「……すみませんでした」
一切の気持ちを込めずに頭を下げる動作だけを見せ、私はさっさと自分の席へと戻った。
些細なミスの一つで、わざわざあんな口調を用いる必要があるのか。粘っこく生理的嫌悪感を与える。 本当に気分が悪い。
それに、確かにミスをしたのは私だが、送ってくれと言われた資料は、後三十分後に必要になるからと急に言われたものだった。しかも作成に必要な補足資料は荒く、私がミスを起こすようにわざとやったんじゃないかとすら思えるような手配だった。
「くくっ」
その時、小さくだが向かいの席から笑い声が聞こえた。それが私に向けての嘲笑だと言う事はもう分かっている。そうやって今、私の事を笑うのは彼女ぐらいだ。
「ご愁傷様」
小さくだが、その声もはっきりと聞こえた。
ちらりとパソコン超しに向かいを見やると、私を嘲る満足げな目元が一瞬見えた。彼女の目は私とあった瞬間にさっと下げられた。
『アナタノコウフクヘンサチハ、……』
先月の自分の点数を思い出したが、さっとすぐに取り払った。
別に構わない。相変わらず器の小さい女だ。そうやって格下だと思っていつまでも見下げてればいい。私はあんたなんかに興味もない。嫌いになるのも面倒だ。
馬鹿みたいな制度に振り回されて、必死にいつまでも幸せに食らいついていればいい。私にはとてもじゃないが、あなたが本当に幸せだとは到底思えない。
向かいに座る女、菊池彩夏は、制度によって幸福に振り回されしがみついている人間の一人だ。いや、きっと彼女の場合制度はあろうとなかろうと同じだったろうが。
私より三年上の先輩である彼女は、最近金持ちの男を捕まえ玉の輿を視野に捉えただかなんだと周りに自慢しており、いつもより更に調子に乗っているようだった。
くだらない。私はあんなふうには絶対にならない。
――かったるいなー。
苦痛なのは仕事内容だけではない。こういうくだらない存在と同じ空間で同じ空気を吸わなければいけない事も大きな要因の一つだ。愚かでどうしようもない生き物。同性だからってこんなのと一緒にされたらたまったもんじゃない。自分の品位まで下がってしまいそうで心底うんざりする。
ここにいるだけで軽微な毒ガスを吸い込まされてるようだった。少しずつ少しずつ、だが確実に蝕まれていく毒。
「はあーあ」
私はもう一度、ため息をついてみせた。ため息は幸せが逃げるだなんて、誰が言ったんだろう。どこまでも、幸せ。幸せ。
ため息ぐらい、つきたい時につかせろっての。
*
「美咲せーんぱい!」
会社を出たところで、後ろから後輩の伊藤真紀がいつもの調子で声をかけてきた。
真紀は二年後輩で、くりっとした目が特徴的で、私よりも頭一つ小さく、同性の私から見ても、いかにも男受けしそうな可愛いらしい女の子だ。
「お疲れ。いいよねー真紀って」
「え? 何がです?」
「仕事終わって疲れてるのに、ぱぁってひまわりみたいに笑顔なんだもん」
「仕事終わりだからこそですよ。支配からの解放。もう私達は自由の身なんですから」
「なんだか尾崎みたいね」
「じゅーごのよーるー」
歌い上げる真紀を見て思わず笑ってしまう。自然と疲れていた心がほぐれていく。
「先輩、晩御飯もう決まってます?」
「いーや、まだよ」
「じゃあ、どっか食べに行きます?」
「んー。今日はいいかな。ありがと」
「いえいえ、全然。この間近くにおいしいパスタ屋さん見つけたんで、どうかなと思ったんで」
「へーいいね。じゃあ今度行こっかな」
「そうしましょ! じゃじゃ、お疲れさまでしたー」
ぺこりと一つお辞儀をして、真紀は私と反対方向へと歩いていった。
馴れ合わない私と違って、真紀は世渡り上手で誰とでも打ち解ける。そんな彼女を最初は警戒したが、いざ喋ってみると案外根は自分と似ている所もあり、彼女には心を許す事が出来た。
くだらない連中が多い会社だが、真紀は違う。違うからこそ、この会社の毒に染まって汚くなって欲しくないなと勝手ながら思っている。
「さっさと辞めて、幸せになりなよ」
遠くなっていく背中に、私はぽつりとそう呟いた。