(1)
「あーもう!」
バンっと大きな音が聞こえた。音の出所は探るまでもない。目の前の席に座る菊池が自分の机を叩く様が、全て私の視界に入っていた。
これで何度目だ。周りの迷惑も考えてほしいものだ。しかもその理由がまた下らない。
「30点」
原因を知る真紀からまず告げられたのは点数だった。
「え、何?」
「菊池先輩の、今月の幸福度」
「へー。えらく点数が下がったみたいね」
興味などないし聞きたくもないのに、わざわざ彼女は自分の幸せを誇示するかのように大きな声で個人情報を垂れ流すものだから嫌でも彼女のプライベートは耳に入ってきてしまう。しかも自分の良い所をこれ見よがしに言うものだから殊更気分が悪い。
確か私の知りえている情報だと、年上の大手企業の証券会社の男とかなりいい感じで、結婚も秒読みだなんて事を言っていたはずだ。顔も有名俳優のように整っており、幸福度は120点をたたき出すかもしれないと気分よく自分の取り巻き達にひけらかしていたが、そんな彼女の点数が30点という事は、その話が頓挫したか、それ以上の何かがあったという事か。
それを言うと、真紀は「その通り」と小さく拍手をして見せた。
「浮気されてたんですって」
「え、嘘」
「いい気になっておはしゃぎあそばされておられましたけど、結局ずっと男に遊ばれてただけだったみたいですね」
「あららら」
菊池の話を聞いた時、その証券マンはこんな女のどこがいいのかと頭を何度も捻ったものだ。だが、答えを聞いてなるほどと思った。
確かに菊池は黙っていれば美人だし、年齢の割には身体つきも悪くない。男が食いつく理由としては頷ける。性格の悪さはすぐにでも見抜けるぐらいあからさまだが、それ故に彼女の構造は非常に単純だ。転がすのに簡単な扱いやすい身体だけの都合のいい女だったのだろう。
「なるほど、それで荒れてるわけか」
話を聞いて一週間は経つが、まだ彼女の心の波は荒立っているらしい。荒立つのは結構だが、いい大人なのだ。場ぐらいわきまえてもらいたい。私はさすがにうんざりして、はあっと大きくわざとらしくため息をついて見せた。
「何?」
すぐさま尖った声が前方から飛んできた。しまったと一瞬思ったが、これは逆にいい機会だとも思った。見れば眉間にしわを寄せ、般若のような菊池の顔が私を思いっきり睨んでいた。悪いのはそっちだろうと思い、私は努めて感情を抑え、表情も崩さず彼女に言い放った。
「あんまり机ばんばんしないで下さいよ。仕事してる皆に迷惑がかかります」
「……はあ?」
彼女がぐっと椅子から立ち上がり、私の席の方へと回ってくる。
暴力か。それならそれでもいいだろう。一発彼女が私を殴れば、謹慎処分でもくらってくれて、騒音の悩みは消え、ついでにその恐ろしい顔を見ずにすむかもしれない。
「何よあんた偉そうに。後輩の癖に生意気な口聞いてんじゃないわよ」
「先輩後輩は今関係ありません。目の前で机をそんな風に叩かれたら、誰だって迷惑だと思いますよ」
「うるさいわよ!」
「うるさいのは先輩です。静かにして下さい」
抑えろ。感情的になるな。そう思いながらも自分の中のボルテージがあがっていくのが分かる。感情が昂ぶり、今まで彼女にぶつける事の出来なかったものを全て投げつけてやりたい衝動にかられる。
「何があったか知りませんが、そんなに我慢出来ない何かがあるなら、しっかり発散してから会社に来てください」
「……あんた、何なの?」
「はい?」
皺がより深く刻まれた菊池の顔は、日頃あれだけ男性の事を意識し創り上げたものを台無しにするほど、もはや女性を捨て去ったとも思えるほど凄まじいものだった。殴られる覚悟だけはしておこうと私は心にぐっと力を入れた。
「最近にやにやしてるし、なにかいい事でもあったのかしら。だから私の事ばかにしてるんでしょ」
「何言ってるんですか? だとしても、それとこれとは何の関係もないじゃないですか。話を逸らさないでください」
「否定はしないんだ。あんた、どうせあたしらの事見て鼻で笑ってるんでしょうけど、自分もやる事しっかりやってんじゃないの。だったら同類じゃない。同類の癖に私は違いますなんて澄ました顔してる方がよっぽど質が悪いわよ。気に食わないとは思ってたけど、本当にうざいね、あんた」
「お互い様でしょ。先輩みたいに薄っぺらい幸せとか、私は興味ないんで」
冷たく言い放った瞬間、ぱあんと大きな音がフロアに鳴り響いた。さっきまで正面を向いていたはずの私の視線が右に向いていた。そして左の頬が次第にじーんと熱を帯びていくのを感じる。
「おい! やめないか!」
フロアからそんな男性社員の声が聞こえた。
叩かれた。そう認識してまもなく、視界がぐらっと大きく揺れたと同時に頭皮に痛みが走った。菊地にどうやら髪を鷲掴みにされ振り回されているらしい。
「やめろ菊池!」
また別の男性の声が聞こえた。視界が定まらないせいで何も分からないが、フロアに混乱が生じているのは確かだ。
「調子にのってんじゃないわよ、この地味女!」
菊池が叫びながら、空いた手で私の顔を何度も叩いてくる。防ぐのに必死だが、無茶苦茶に振り下ろされる拳が何度かもろに顔に当たってしまい、その度痛みが走る。
しばらくその状態が続いたが、やがてぱっと髪を掴み感触が抜け、急に解放された私はそのまま後ろに勢いあまって尻もちをついた。目の前では鬼の形相で私にまだ掴みかかろうとしている菊池を何人かの社員で取り押さえている状態だった。
「大丈夫ですか!?」
横から真紀の声がした。目には涙が溜まり、こっちが申し訳なくなるぐらいに心配そうな顔で私を覗き込んでいる。
「うん、大丈夫。びっくりしたけど」
「あの……」
「大丈夫だってほんと」
「いや、あの、鼻血……」
「え?」
言われて手を鼻に伸ばすと、ぬるっとした感触が指に伝わった。見ればべっとりと赤い血が付着していた。
「大丈夫、じゃないね」
「お手洗い、行きましょうか」
「うん」
私は真紀と一緒に手洗いへと向かった。その最中にも後ろから菊池の喚き声が聞こえてきたが、私には負け犬の遠吠えにも劣る雑音以下の声だった。拾う価値もない。
喚く彼女をよそに、私は悠然とその場を離れた。