Green respect
殺人罪:刑法第199条
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
その年の五月、私立探偵で身を立てている山田俊介の元に常の素行調査などとは異なる、特殊な依頼が舞い込んだ。しかも依頼主は女子高生だ。俊介の事務所に入るかどうか迷っている素振りを見せていたところを、外出帰りだった所員の並木に声を掛けられて、おずおずと事務所のドアを開いたのだ。
小柄で、肩を過ぎたあたりで切り揃えられた黒髪も清潔感のある、ふっくらした頬の少女に、俊介は場違いなところに来たのではないかと一抹の心配と疑いを抱いた。探偵稼業は彼女と同年代の少年少女たちが夢見るようなハードボイルドなものではない。他の職種と同様、地道な努力の積み重ねの末の仕事だ。
そして現在の場合、地道な努力は少女の緊張を和らげ、話を聴く、というものになる。
並木と同じく所員の河原田が、きちんと背筋を伸ばして俊介の前のソファに座る彼女に、お茶を出した。上客が来た時用の、上等の茶葉で淹れたお茶だ。それに大福まで添えてある。少女の強張りをほぐそうとする河原田の心遣いが偲ばれた。女性所員がいない俊介の事務所で、こんな気配りは助かる。
「あたし、藤川緑子と言います。幼少期に亡くなった父の縁で、叔父様から学費と生活費の援助を受けていました」
「叔父様と言うと…」
「はい」
少女はそこで、すう、と息を吸った。
「先月殺害された、煉瓦邸の主人・藤川久三です」
その事件であれば俊介も知っていた。注目を浴びた事件だからでもあるが、探偵たるもの、時事に疎くては到底、務まらないのである。
殺害された煉瓦邸の主人の名は藤川久三。このあたりでは知られた大企業を経営する名士である。自宅が独特の白っぽい色をした煉瓦で出来た立派な家屋の為、近隣では煉瓦邸と呼ばれている。
児童養護施設の設立に始まり、才能ある学生の為の奨学金制度を藤川の名で設け、老人ホームやスポーツ施設の建設にも多大な寄付金を投じた。彼を知る者で、人格者として称えない者はやっかみを抱く人間くらいだった。
そんな藤川久三が先月、殺された。
久三は死ぬ前日、寝室で就寝しなかった。尤も、仕事に没頭した彼が夜を書斎で過ごすのはよくあることで、この時点では誰も彼を心配してはいなかった。
しかし、徹夜しても毎朝、朝食の席には必ず現れる久三が姿を見せないので、さすがに心配した家族が彼の書斎のドアをノックするが応答が無い。ドアには内側から鍵が掛かっていて開けることが出来ない。仕方なく庭から書斎のほうに回ると、硝子戸越しに、カーテンの隙間から椅子にもたれるようにして、胸にナイフの刺さった久三を発見し、警察と救急に通報したのである。
ナイフは久三の蒐集コレクションの内の一本だった。
問題は次の点だった。
凶器と思われるナイフの柄や、その収納硝子ケースから指紋を拭き取られた跡があったが、久三の部屋はドアにも庭に通じる硝子戸にも、内側から鍵が掛かっていた。前者を不審視した警察は自殺の線は無い、と結論付けた。現時点では自殺の動機も他殺の動機も見えてこないが、警察は久三の死を他殺と見なしたのだ。
そうなるとこれは完全な密室殺人である。
ドアと硝子戸の鍵には久三の指紋しか見つからなかった。
この密室殺人の犯人はまだ見つかっておらず、マスコミはこぞって面白可笑しく色んな憶測を記事にして書き散らした。
緑子はそれが我慢ならないと言う。
「叔父様には本当にお世話になったんです。せめて真犯人を見つけて、ご恩返ししたいんです」
俊介の事務所ではこの手の刑事事件の捜査もしないではない。
しないではないが軽々とは引き受けない。
「これは君の親御さん…、つまりお母さんもご承知のことかな?」
「はい。具体的にこちらに伺うことはまだ告げていませんが、もし叶うことなら真犯人を突き止めてやりたい、と言っていました」
緑子は赤い目で頷いた。
「今まで叔父様には本当にお世話になったからって…。お父さんが死んだあと、叔父様がいなかったらどうなっていたか判らないって、お母さんも言ってたんです」
涙ながらの緑子の依頼を俊介は受けることに決め、また後日に改めて、保護者である母親同伴、且つ印鑑等持参で来るように、と言ってその日は帰宅させた。
俊介が煉瓦邸を訪れたのは、それから一週間後のことだった。
難航している真犯人捜しに躍起になっている警察関係者への根回しやら何やら、調査を円滑に遂行する為に欠かせない雑事をその間にやっていたのだ。雑事の中には煉瓦邸に住まう顔触れの基本的な資料入手も入っている。
煉瓦邸は俊介の事務所から車で三十分程の土地にある、豪壮な建物だった。
入口の門柱も煉瓦で作られており、両脇には樅の樹が植わっている。
春真っ只中の風の穏やかさ、明るさとそれらはやや異質なものと俊介には感じられた。
インターフォンを鳴らすと家政婦らしき人が出たので、俊介は自分の素性を述べ、予めアポイントメントを取っておいた旨を告げる。
『はい。山田様ですね。伺っております。どうぞ』
声と同時に門柱の間の鉄柵が左右に開いた。
通された応接間は木材と煉瓦がふんだんに使われ、両素材が調和した居心地の良い空間で、天井からは大きく奇妙にねじれた和紙材であろう照明器具が下がっている。和洋を超えてモダンだった。
テーブルを中心に並んだ肘掛け椅子には、それぞれ四人の女と一人の男が座っている。その中には緑子もいる。
そして俊介と同じように応接間に立つ人物がもう一人。
涼やかで清楚な風貌の、長い髪を後ろで一つに結んだ女性は、予め目を通した資料には無い顔だった。
テーブルの、向かって右手に座る女性が、俊介とその立っていた女性に着席を促す。
「どうぞ、山田さん。音ノ瀬さんもどうぞ、座っていらして」
「ありがとうございます」
二人は同時に言って、同時に隣り合って着席した。その際、俊介は彼女を窺うように横目で見たが、音ノ瀬と呼ばれた女性は俊介の存在を全く意に介していないようだった。
「どうも。僕が私立探偵の山田俊介です。この度は大変なことでしたね。改めてお悔やみを申し上げます」
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。私が藤川久三の妻・藤川菜恵子です」
左奥に座る小柄でふっくらした体型の、上品な装いをして髪を後ろで引詰にした四十絡みの女性が俊介に会釈する。
「今回は緑子が無理を言ったようでごめんなさい」
「いいえ。緑子さんのお母様からも正式な依頼を受けましたので、責任を以て僕に出来る限りの事件調査をさせていただきます」
俊介がそう言った瞬間、応接間にぴりり、と静電気のような空気が走った。
(何だ…?)
「あたしが、藤川久三の妹・明石塔子です。よろしく」
菜恵子の右隣、三十代か二十代後半、俊介と同い年くらいに見える、華のある女性が俊介に菜恵子と同じように挨拶する。社交的な性格のようで、快活な笑みを頬に浮かべている。
「僕は塔子の夫の明石幹夫です」
塔子の右に座る小柄な男性が、ぼそりとつけ加える。久三の遺体の第一発見者でもある彼は、申し訳程度に俊介に会釈して見せただけで、それ以上は喋らなかった。
「そして私が、事務所にお伺いした折も申し上げましたが、藤川久三の義姉に当たる、藤川美雪。緑子の母です。依頼を受けてくださって感謝しております」
俊介たちに着席を促した女性だ。ほっそりした長身の彼女は、それまでの女性二人より深々と俊介に向けて頭を下げる。
母と同時に立ち上がっていた緑子もそれに倣った。
「あの、失礼ですがそちらの女性は――――――?」
俊介が自分と同時に着席した女性について尋ねると、本人が初めて口を開いた。
「私はコトノハ薬局の音ノ瀬こと、と申す者です。こちらには事件後のメンタルケアの依頼を受けてお伺いしています」
「コトノハ…薬局の方ですか?」
「いいえ、それはあくまでただの名称です。言葉の薬剤師という意味合いで名付けたものでして。私のことは心理カウンセラーとでも思ってください」
微笑したことに、俊介は頷く。
一家の長であった人間が死んだのだ。しかも他殺で、犯人はまだ見つかっていない。
表向きは平常を装う家の人々も、内心に抱える傷や懊悩があっても不思議ではない。
ことの存在により俊介は、藤川家の住人が受けた痛手に思いを馳せた。
「こちらが主人の書斎です」
「失礼します」
厚い木の扉のドアノブを掴み、開ける。音ノ瀬こともなぜかついてくる。
メンタルケアの参考になるのだろうか。
床には青と緑の模様のペルシャ絨毯が敷かれ、書棚が左右の壁を覆っている。
書棚の一角には大きな硝子ケースが置かれてある。中には久三のコレクションと思しき種々様々なナイフが置かれていた。
「凄いな。ジェンツからセミスキナー、ハンドスケルペル、ドロップ・ポイント…」
俊介には友人に久三と同じくナイフの愛好家がいた為、並べられているナイフの種類や名称まで判ったが、ことと菜恵子は呪文を聴いているような顔になった。
「…大層なコレクションなのですか?」
俊介が興奮した表情で頷く。
「ほとんどが万から数十万単位する逸品揃いです。ナイフの柄はオリーブからサンバースタッグと呼ばれるインド産大鹿の角から色々ありまして、珍しいところではマラカイトを使用した柄なんかも―――――」
「山田さん。もう結構です」
自ら訊いたは良いものの、俊介の止まらない説明にことがストップを掛けた。我に帰った俊介が、気を取り直して続ける。
「…ええと。確か、凶器に使われたのは柄がサンダースタッグハンドルの奴ですね。二十五万くらいしたような…」
「高価ですね。けれど喪われた命とは比較になりません」
ことが淡々と言って硝子ケースを覗き込む。
整然と陳列された内、一箇所に出来ている空白は、恐らく久三の息の根を止めた凶器が収まっていたのだろう。
「ケースに鍵は?」
「最初から設置してありませんでした」
俊介の問いに菜恵子が答える。
書斎の窓の前に立派な机が置いてある。机の向こうは硝子戸で、庭に降りられるようになっている。皮張りの椅子にもたれ、胸にナイフを刺したまま発見されたのだと週刊誌や警察からの情報にはあった。
「…御主人はここで?」
「………はい」
「警察にも同様のことを訊かれたと思いますが、久三さんが誰かから恨まれていたというようなお心当たりはありませんか?」
「いいえ。主人は立派な人でした。感謝されこそすれ、恨まれるような憶えはございません」
ここで俊介は引っ掛かりを感じた。
菜恵子の声は通常であれば凛として誇らしく、または悲壮感に満ちたものであるべきではないのか。
しかし答えた彼女の声はどこか虚ろで、空々しく俊介の耳に響いたのだった。音ノ瀬ことは無言で菜恵子を凝視している。
俊介が菜恵子に他の事情を伺っている間、ことは中座して美雪の部屋で彼女のカウンセリングの続きを再開していた。ことは俊介がこの邸に到着するより早く来ていて、既に自分の仕事を開始していたのだ。菜恵子と緑子のカウンセリングは、とうに終えていた。美雪をカウンセリングしていたところで、俊介がここを訪れたのだった。
「とても立派な方だったのですね」
美雪が確固とした態度で頷く。
「まだ幼い緑子を残して主人が死んだ時、私は途方に暮れました。それまでは主人の稼ぎに頼っていましたから、これからは自分があの子の面倒を見ながら、働きにも出なければと思うと、その重荷に押し潰されそうで…。そんな時、久三さんが救いの手を差し伸べてくださったんです。あの方には感謝してもし切れません」
つう、と美雪の頬を涙が滑る。
「お辛かったですね。貴方の感謝の念で、亡くなられた久三氏にも慰められるところはきっとあったでしょう」
「そうであればどんなに良いか…」
ことが優しい声を掛けると、美雪は顔を両手で覆い、何度も頷いた。
ことは次に久三の妹である塔子の部屋を訪ねた。
「本当にいかれた犯人だわ。よりによってあんな優しい兄さんを殺すだなんて。未だに犯人が見つからないのが信じられない。警察は一体、何をしているのかしら」
「お兄様を慕ってらっしゃったのですね」
ここで一拍、不自然な間が空いた。
「それはそうよ。兄さんは、―――――立派な人だったから」
「そうですか………」
ことは次に塔子の夫である明石幹夫の部屋を訪ねたが、カウンセリングの必要は無い、と言われた。
その間、入れ違いのように俊介は家政婦も含めた菜恵子の他の住人たちに、事件が起きた日の行動、気付いたことなどを訊いて回っていたが、めぼしい収穫は無かった。
俊介とことがそれぞれの仕事をこなしている間にも日が暮れ、夜になった。
今日はここまでにしてまた明日伺う、と告げた俊介たちを美雪が引き留めた。
「もう遅いんですし、泊まっていかれてはいかがですか?幸いうちは、部屋数がありますし」
「いえ、しかし…」
「御遠慮なさらず」
菜恵子も言い添える。但し、その表情は若干、複雑なものに見えた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
そう言ったのはことだった。便乗する形で俊介も、煉瓦邸に泊まる流れになったのである。
晩餐は至極、和やかに進んだ。
供されたのは、赤ワインフランボワーズソースで煮込んだ鹿肉をメインディッシュとした料理だった。甘くとろみのあるソースの絡んだ円形の肉は柔らかく、噛むと肉汁が口一杯に広がる。その美味を俊介は堪能した。こともよく食べ、よく飲んだ。俊介は思わずその健啖家振りに見入ってしまった。食事を運ぶ家政婦が、それを嬉しそうに眺めていた。
入浴もそれぞれ済ませ、そろそろ宛がわれた部屋で眠りに入ろうとした俊介は、部屋に 向かう途中、廊下の窓硝子前に立つことを見掛けた。彼女は右手を顎に添えるようにして何やら思索に耽っている。
「音ノ瀬さん。どうかされましたか?」
ことは驚いた顔も見せず俊介を見た。
「今回の事件の真相について思うところがありまして」
「え?」
「山田さん。今から久三氏の書斎に参りませんか?」
菜恵子の許可を得た上で、俊介たちは再び久三の書斎に足を踏み入れた。
部屋の硝子戸の向こうには、夜の闇が広がっている。ことが歩を進め硝子戸を開けると、春特有の若い空気を孕んだ風が吹き込んだ。
「ここで、久三氏は亡くなっていた」
ことがきい、と皮張りの椅子を揺らす。
「はい。深夜に、胸にナイフを刺されて、出血死で。そして部屋は完全に密室だった…。誰に話を聴いても解らないんです。犯人は消えたとしか思えません。現状、情けないですが俺にはお手上げの事件です」
滅多に無い刑事事件の捜査という機会に、胸が少しも踊らなかったと言えば嘘になる。しかし現実はこれだ。
「山田さん。犯人は消えたんです」
「え?」
夜の闇を背景に立つことの、今は結ばれていない長い髪が揺れる。
芳しい香りが漂う。俊介は目の前の女性に幻惑されている心地だった。
「消えた、とは」
「文字通りの意味。この世から、いなくなったんですよ。山田さん」
「仰る意味が解りません。これは自殺ではないんですよね?」
「山田さん。私には、人の嘘を知覚することが出来ます。声に宿る感情も。菜恵子さんは久三さんの死を悼むより先に戸惑っています」
「それは、有り得るでしょう、だってご主人が…」
ことが憐れむような微笑を俊介に向けたので、俊介の胸は思わずどきりとした。
「…山田さん。今から私が話すことを明日、皆さんの前で語ってください」
ことはそう言うと開けていた硝子戸を閉めてきちんと施錠し、俊介に自分の考えと結論を語り聞かせると、久三の書斎を出て行った。俊介は置き去りにされた犬のように心許ない、それこそ戸惑う思いで部屋に残された。
翌朝、朝食を終えた面々は、昨日と同じようにそれぞれの席に着いた。俊介がそう望んだのだ。何が今から始まるのか、固唾を呑む空気を感じながら、俊介は口火を切った。
「この事件には主犯の他に共犯者がいます」
「――――――えっ?」
「まさか。だって密室殺人なんでしょう?」
驚愕の声を上げた菜恵子に塔子も言う。
「密室殺人だから共犯がいないという理論にはなりません」
「それはそうだけど…」
「共犯者がいたからこそ成立した密室殺人です。ですが、その共犯者は死にました」
「…意味が解らないわ」
美雪の茫然とした声に、俊介はさもありなんと頷いて見せる。
「肝要なのは、被害者と共犯者が同一人物だったということです。皆さんは、完全犯罪の最たるものをご存じですか?」
「被害者が、犯人に協力すること、ですね」
ことが絶妙な合いの手を入れる。打ち合わせ通りだ。
俊介はまたも大きく頷く。
「そう。今回の事件が密室事件と成り、ここまで警察たちが惑乱されたのは、亡くなった久三氏が犯人を庇い、死を前にしてドアの内鍵を自力で閉めたからなんです」
「……誰が叔父様を刺したんですか」
蒼白な顔の緑子が尋ねる。今日は日曜日なので学校もなく、彼女たっての希望もありここに在席しているのだ。
ここでことが立ち上がり、菜恵子の元にゆっくり歩み寄る。
「…菜恵子さん。貴方が久三氏を殺害したのですね」
菜恵子の顔は色がなく、全身がかたかたと微細に震えている。
「ちょっと待ちなさいよ。どうして義姉さんがそんなことする必要があるの!」
ことは、今度は塔子のほうを向く。
「貴方もご存じだったんじゃありませんか?その理由を。私には、カウンセリングを重ねる内に見えてきたものを推し量ることしか出来ませんが」
藤川久三は人格者、篤志家として名高い人物だった。
だがそれは人に与えることを無償の喜びとするものではなかった。彼が代わりに望んだのは単純且つ明快。名声である。人からの称讃の眼差し、敬意。久三は獣が肉や水を欲するのと同じようにそれを求め望んだのだ。
彼の内側には幾ら得られようと満たされない渇望が常に在った。
緑子ら母子の救済も、彼にとって感謝の念を得る為のもの以外の行為ではなかった。哀れな母子の恩人となる。それもまた久三にとっては甘美だった。世の中にはそういう人間も稀にいることを、俊介も知ってはいた。
それだけであればまだ良かったのだが、久三は自らの渇望に貪欲になる余り、妻や妹ら身内の人間にひどく冷淡になっていった。なぜなら彼らは久三にとって渇望を満たす対象とは成り得なかったからである。身内の存在は久三には賛美を得るには近過ぎ、与え甲斐を見出せなかった。緑子ら母子が、彼にとって与え甲斐のあるぎりぎりのラインにいる存在だったのだ。久三はことあるごとに菜恵子や塔子、幹夫に侮蔑的な発言を繰り返すようになった。それは菜恵子に対して特に顕著だった。
「あの人…、私に言ったんです」
涙を流しながら菜恵子が抑揚のない声で言う。
〝お前がナイフくらいに役に立つ女だったらな〟
「妻が使い物になる女なら、もっと世間の称讃を得ることが出来るのに、と…」
今度行われるチャリティーバザーで自分が手伝えることはないか、と菜恵子が久三の書斎を訪ねた時のことだった。菜恵子は菜恵子で自分に出来ることをしようと思っていた。お嬢様育ちで不器用な点を克服したいとそう思い、久三に申し出たのだった。
しかし久三に完膚無きまでにその志を粉々にされた。
〝お前にはナイフ一本の価値も無い〟
菜恵子の中で、それまでに耐えていたものがふつりと音を立てて切れた。
気がつくとナイフを手にして久三に向けて振り上げていた―――――――。
「どうしてあの人、私を庇ったの…?死んでもまだ、褒められたかったの…?」
ことが傷ましげな表情で、菜恵子の前に跪いた。
「それは、解りません。貴方が長年連れ添った奥様だったから、咄嗟の衝動で庇われようとしたのかもしれませんが…。もう、久三氏に尋ねることは叶いません」
久三の言葉は永遠に喪われてしまったからだ。
菜恵子が号泣した。
緑子と美雪は愕然として言葉もない。
ただ、塔子と幹夫は複雑な表情で菜恵子を見ていた。彼らは菜恵子が犯人であることを薄々察していたのだ、と俊介は思う。ただ、久三から冷遇される仲間意識から、菜恵子を庇おうとしたのだろう。何とも後味の悪い事件だ。
ことが俊介の傍に寄る。
「菜恵子さんに自首を勧めてください。私は知り合いの刑事さんに連絡します」
「警察に知人がおられるのですか?」
「ええ、まあ」
知れば知る程に謎めいた女性だ。
今回の事件の真相を見抜いたのは自分ではなく、彼女だ。ことがいればこそ迷宮入りしそうだった事件が解決された。しかしその内容は生易しいものではなかった。
俊介は緑子の胸中を思い、同情した。あれ程、恩義を感じて尊敬していた叔父の本性を知らされ、その上、その叔父を殺害したのは叔母だったのだ。繊細な感受性を持っていそうな彼女には衝撃であるだろうし、辛さは察して有り余る。またそれは彼女の母である美雪にも言えることだった。
「音ノ瀬さん。こちらのカウンセリングはまだ続けられるんですか?」
「もちろんです。寧ろこれからが彼女たちにとってセラピーが必要な時でしょう。この家の人全員に、きっと必要となります。菜恵子さんにも――――――」
煉瓦邸を辞した俊介とことは、しばらく同じ方向に無言で歩いた。
事件の真相が公になれば、またここにマスコミが押し寄せることだろう。そう考えると俊介の胸には再び苦いものが広がる。
「私はこの先の角のバス停まで行きますが、山田さんは?」
ことにそう尋ねられ、俊介は彼女とはここで別れるのだ、とはっとして認識した。
出来ればもう少し一緒にいたい。この感情は何なのだろう。二人で同じ事件に関わった、吊り橋現象によるものだろうか。煉瓦邸でのことの振る舞いは、冷静に人々を見つめ、尚且つ思い遣りに満ちたものだった。俊介はその人となりに惹かれていた。
「俺は近くに部下が車で迎えに来てくれてる筈ですから…」
飲む状況になるかもしれないので、煉瓦邸には今のこと同様、バスを使って来たのだ。部下に迎えなど頼まなければ、ことと一緒にバスに乗り込めたかもしれないのに。
もう少し。
もう少し、ことといるのは叶わないものか。
「そうですか。ではこれで」
俊介の想いを知らずあっさり言って頭を下げ、歩き出すことに、俊介は慌てて呼びかけた。
「この先、何かあればコトノハ薬局を利用させていただいても構いませんか?」
この程度のアプローチしか出来ない自分が情けない。
「ええ、いつでもどうぞ」
ことは歩みを止めないまま振り向いて、やや怪訝な表情で答えた。それから前を向き直ると、もう振り返ることなく歩いて行く。緑が薫るような風に、一つに結んだ長い髪が揺られている。五月の穏やかな陽光が降り注ぐ中を、ことの背が遠ざかっていく。
この後、俊介は何かにつけコトノハ薬局に接触を図るようになる。
その過程で、音ノ瀬家が処方する言葉の音色と力・コトノハについて知るようになるのは、まだ先の話だ。
fin