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第97話「1年の大半はうちにいないんだから、1日くらい誤差」

 校門の前にいた山下(やました)満流(みちる)が、コンビニのビニール袋を自転車の前カゴから取り出して手を振った。木曽(きそ)穂波(ほなみ)は、それを見て思わず目を見開いた。


「満流さん? どうしたの」

「ご挨拶ねえ、穂波さん。せっかくお土産持ってきてあげたのに」

「……ひょっとして、私に?」

「ほかに誰がいるの?」


 逆に訊かれて、思わず穂波は左右を見回してしまう。ほかの陸上部員も、穂波と満流を交互に見つめながら内緒話をしていて、ふたりの存在に注目している様子だ。

 ラフな私服で自転車にまたがり、フットペダルをつま先でくるくる回しながら、夏の日射しを受けて、満流は穂波に微笑みかける。まさに夏真っ盛りの、季節限定のCM動画みたいな光景だった。


「ほら、アイス。食べないならひとりで食べちゃうけど」

「あ、食べるよ、食べる」

「チョコミントかバニラ」

「極端な二択だね……ミントちょうだい」


 いいながら穂波は満流の自転車に近づく。満流の差し出したビニール袋の中から、ミントアイスのカップと木のスプーンを取り出す。すでに溶け始めているみたいに濡れたカップの表面がひどくすべりやすくて、穂波は両手でカップを支えた。

 残ったバニラアイスを袋から取り出した満流は、すぐに蓋を開け、器用に片手でスプーンを袋から取り出し、ひとすくいして食べ始める。


 そんな、ためらいのない彼女の姿を、ほかの生徒がちらちらと様子見しながら通り過ぎていく。ついでに穂波まで注目を集めているみたいで、彼女はなんだか気後れしてしまう。

 視線を集めている張本人の満流のほうは、意に介した様子もない。


「ん、おいしい。真夏の真昼に食べるアイスは何でもおいしいよね」


 いいながら穂波の様子を見て、満流は目をすがめる。


「食べないの?」

「食べるけど……」


 生徒たちの下校の波にプレッシャを感じて、穂波はカップの蓋を開けられない。両手の熱がアイスに伝わって、食べるころにはドロドロに溶けていやしないか、と不安になりつつ、彼女はうつむいてカップのロゴを見つめる。


「陸上部ってたいへんだよね」


 スプーンを唇の端に挟んだまま、満流はそんなことをいう。


「夏休みの、しかもこんな昼間っからさ。むしろふだんの部活よりきつくない?」

「でもまあ、午前中だけだし。演劇部は?」

「2学期からかな、本格的なのは」

「それはそれで、たいへんだね」


 あまり部活が活発でない翠林にあって、演劇部は際立ってハードで本格的な活動をしているという。穂波も、たまに手伝いに駆り出されることがあるが、舞台上での満流たちには鬼気迫るものを感じたりもする。

 文字通り、違う世界を生きているような人々に思えてならない。


 下校する人の姿が途切れ、校門のそばには満流と穂波のふたりだけになる。外に出れば、すぐさま夏の人いきれと都市の熱が押し寄せてくるはずだが、ほんの一歩こちら側にいるだけで、気温さえ低く感じられる。


 チョコミントアイスはすこし蓋にはりついて、開けるのにわずかな抵抗があった。穂波はミントアイスをすくい、ひと口。

 すっ、と乾いた口の中に涼しさがあふれた。首筋に、きんと冷気が刺さってきて、思わず穂波は目を閉じる。


「んー……ありがとね、満流さん」


 穂波がほほえんでいうと、満流は無言でうなずく。穂波も無言で、スプーンの先ですこしずつアイスをすくう。


 正直なところ、意外だった。陸上部のスケジュールを満流に話したかどうかさえ、自信がない。ましてや、部活の終わる時間を想定して、お土産まで持って迎えに来てくれるなんて、穂波には思いも寄らなかった。

 教室や、校内では、自然と会う機会もある。けれどそれと、休みに自転車を飛ばして会いに来るのとは、別の話だ。


「満流さん、お昼は大丈夫なの?」

「大丈夫、って、何が?」

「その、おうちで誰かと。お父さん、帰ってきてるんでしょう?」


 ふだんは国外を飛び回っている満流の父親が、夏休みの時期に帰ってくる、という話は聞いていた。だから、いまは満流の家は親子水入らずなのではないか、と、穂波は想像していたのだった。

 彼女の来訪が予想外だったのは、それもある。


 しかし、満流は肩をすくめて笑うだけだ。唇の先でつまんだスプーンを、梃子のようにかるく上下に動かして、ひょい、と彼女はバニラの真ん中にそれを突き刺した。木製のスプーンは、溶けかけた山の中腹から斜めに突き出して、どこか遠くを指し示すみたいだった。


「平気よ。どうせ1年の大半はうちにいないんだから、1日くらい誤差」

「逆じゃない……? それだから、1日が貴重なんじゃ」

「そもそも、親と何日もベタベタするほど、子どもじゃないわよ」

「うーん」


 ちいさなチョコチップのかたまりが、奥歯の隙間にもどかしく引っかかる。穂波はすこしあごの奥に力を入れて、そのチップをすりつぶすようにかみ砕いた。

 満流は、とぼけた顔でバニラアイスをどんどん消化していく。サドルの上で体を揺らす彼女は、どことなく不安定で、いつペダルを蹴って飛び出してもおかしくない。


 はらはらしながら、穂波は満流の顔を見つめる。

 真上から降ってくる陽光は、満流の細面をまぶしいほどに照らしていて、穂波は一瞬、目を細める。


「前にさ」


 ふいに、ぽつりと、満流がつぶやいた。


「何?」

「前に話した、泊まりがけで遊びに行く話」

「……うん」


 忘れかけていた、あるいは忘れようとしていたことを、ふいに思い出させられた。穂波の胸の奥が、きゅっ、と締めつけられる。

 満流は、スプーンの先で、カップの端に溜まったバニラを静かにかき集めている。その指先の動きは、まるで穂波を追いつめるみたいに、じっくりと、ゆっくりとしていた。


「あのときは、冗談、っていったけど」


 きい、と、自転車のタイヤのスポークが、かすかにきしむ。


「本気にしても、いいんだからね」


 両手の中で、チョコミントが溶けていくのが感じられるみたいだった。穂波の手のひらの熱は、部活の後もますます上がっていくようで、だんだん、自分でもどうにもならなくなりそうな気がしてくる。

 降りそそぐ真夏の熱は、穂波を逃がしてくれそうにない。

 じんわりと形をなくしていくアイスが、こぼれ落ちそうだった。


「……ほんとうに?」


 そう問い返したら、やっぱり、冗談になるのかもしれないような気がしていた。

 つかのまの日射しが、穂波と満流の心をジリジリと焼いて、判断力を奪っているのかもしれなかった。満流の言葉も、熱に浮かされた気の迷いで、後悔するような類いの代物だと、そう、思い込むつもりでいた。


 穂波の、そういう守りを撃ち抜くように、満流の視線が射抜いてくる。


「うそだと思う?」


 演技のような、逃げのような穂波の表情なんて、きっと満流にはお見通しだ。

 逆に、満流のその目に嘘があるのかどうか、穂波には見抜けない。


 溺れてしまいたい誘惑と、逃げなくちゃいけないという恐れが同時に押し寄せて、しばしの間、穂波は動けなくなる。

 チョコミントが、カップの中で崩れていく。


 満流は、あるかなきかの笑みを浮かべて、穂波の答えを待っている。

 決断を迫られて、うなじから背中まで焼き尽くすような日射しの下で、穂波はしばし立ち尽くして。


 ようやく、穂波はつぶやくように、答えた。


「……いつがいい?」

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