第93話「休みになっても皆さん登校してくださればいいのに」
朝から降りしきるセミの鳴き声に押しつぶされたみたいに、香西恋は机にべったりと体をはりつけて、窓辺の席から教室の中を眺めていた。真横を向いた彼女の顔の、ぺしゃんこになった頬の肉は、柔らかなお餅のようにまっ平らにつぶれ、いまにも机と一体化してしまいそうだった。
ひしゃげた唇から、うなり声が漏れる。
「ううー……」
「恋さん、朝から死にそうね……」
恋の椅子の背もたれに両手を載せ、桜川律は後ろから声をかけた。恋は顔を上げもしないまま、うつろな目だけをわずかに律のほうに動かした。肩越しの目線が、律をなんだか恨めしげににらむ。
「消えてなくなりそうです……」
「今朝、そんなに暑くないでしょ? 最高気温も、昨日よりかは低いみたいだし」
「そういう話ではなく」
苦しげな姿勢の恋のつぶやきは、中途半端に途切れた。ちいさくせき込み、恋は身を起こす。ふくよかな彼女の頬が弾力を取り戻して、風船のようにはねる。ふう、と息をついて、恋は体ごと律のほうに振り返った。
「そういう話ではなくてですね。もうじき1学期が終わってしまうせいで」
「いいじゃない、お休みだし」
「でも、教室に皆さんが来なくなったら、私の1日の滋養が摂取できませんもの」
恋の主張に、律は苦笑を返すだけ。美少女を観察するのが大好きな香西恋にとって、女子校の教室という空間は栄養のたっぷり詰まったサラダボウルのようなものであるらしい。クラスメートをひがな1日眺めることが、恋の活力なのだという。
「ですから、長期の休みはいつも憂鬱です」
「……動画でも撮っといたら? 薫子さんが写真撮ってるみたいにさ」
「それもまた違うんですよ。私が欲しいのは、日々の環境がもたらす変化、思わぬ接触がもたらす想像以上の相互作用です」
めんどくさいなあ、と、内心で律は思う。
恋のそういう哲学はときどき聞かされてはいるものの、恋はそこまで共感できない。好きなアイドルのステージは100回観たって飽きないし、舞台裏を映したドキュメンタリーや特典映像も観るたび泣いている。全部覚えるくらい観たあとでも、違った発見があるものだ。
「休みに入ってしまうと、皆さん親しい友達としか会いませんでしょう? 親密になるチャンスはたくさんあっても、なかなか意想外の出会いというのはすくないものです」
「一夏越えて親密になってるって、なかなか意味深じゃない?」
「ええ、そういうのはいいものです。ですから休み明けはわくわくものなのですが、はたしてそれまでの休みを乗り越えられるかどうか……」
ふたたび机にひじを突いた恋は、いまにも力つきそうに体を傾ける。糸のように目を細めた彼女は、教室に魔法でもかけようとするみたいな声でつぶやく。
「休みになっても皆さん登校してくださればいいのに」
「それ休みの意味ないじゃん」
あきれる律。恋は彼女のほうに向き直り、ふっと目を見開く。
「そういえば律さん、いつぞやお話ししていた新しい部活動はどうなりました?」
「ああ、ちょっと妃春さんとも話したんだけど……」
律が提案した部活動というのは、何もせずにただ教室を借りてだらだらするだけという、活動ともいいようのない部だ。放課後もなんとなく教室に居残れたらいい、というぐらいの、さほど強い意志もない思いつきだった。
「さすがにそれじゃ通らないからって。形式的にでも、何か目的がないといけないみたい」
「何か案は?」
「何にも。だからひとまず話は保留」
「そうですか」
恋はちいさく左右にかぶりを振る。
「無意味に学校にいるというのも、なかなか難しいものですね」
「まあ、学校ってそういうものだよね」
のどかな校風の翠林女学院だが、部外者に対する入校制限は年々厳しくなっており、生徒たちに対する下校時刻の強制も、いまは以前より締め付けが強いそうだ。
かつての翠林女学院は、もっとおおどかで、自由で、毎日がお祭りのようだった、という。
祖母の代から同じ学校、という生徒も多い翠林では、そういう伝説が、親子三代を通じて聞こえてくることがある。羨望とともに語られるそれらの伝説は、宝石のようにきらびやかな印象を残し、律の胸の奥にも甘く刻まれていた。
とはいえ、もう時代が違う。
律や恋は、いまの学校に適応して暮らしていくだけだ。
「もし部活がうまくいきそうでしたら、教えてくださいね。私も入部を検討します」
「そんなやる気のある子、恋さんだけだよ、たぶん」
「いいんです。必ずですよ」
勢い込んだ恋は、机から肘を持ち上げ、椅子をずり動かしながら律のほうを見る。いきなり支えを動かされて、律は一瞬つんのめった。
「おっと」
「ひゃ」
額がぶつかりそうになって、とっさに律は上半身をのけぞらせる。恋はとっさに動けなくて、ぽかんと律を見つめているだけ。前髪だけがかすかにこすれあって、つかのま、絡み合ったように感じた。
体勢を立て直した律は、さっと指先でおでこをなでる。
「危ない危ない。恋さん、ぶつけなかった?」
「え、ええ」
「びっくりしたよ……って、恋さん、どうしたの。何ぼーっとして」
首をひねる律を、恋はぼんやりと見つめていた。それから、プックリした唇がかすかに動いて、細く言葉を紡ぐ。
「律さんの肌、意外と、なめらかですね」
「……そう? 薫子さんとかみたいに念入りに手入れしてるわけじゃないけど」
「では、自然の賜ですね」
口にしながら、恋はゆっくりと律の右手に手を伸ばす。自然な仕草に律が反応できない間に、彼女は律の右手に上から覆いかぶせるようにして、自分の手を重ねた。
恋のやわらかくて大きな手が、ふいに律の手にぬくもりを与えてくる。その温度に、律はとまどう。
こんなふうに恋に触れられるのは、初めてかもしれない。
「……何」
どう反応していいのかわからなくて、つい、声がつっけんどんになってしまった。恋はかまうことなく、律の手を柔らかく包んだまま、目を細めた。
「律さんの手を、ずっと覚えておきたく」
「……はあ」
「これが律さんの最後の思い出かと思うと」
「縁起でもないこといわないでよ」
空いた左手で、今度こそ恋の額をかるくつついた。痛がるでもなく唇をとがらせ、恋は律を不満げににらみ返す。
「いいじゃないですか、手ぐらい」
「いいけど。最後ってことないでしょ、夏休みだって、二学期だってあるんだし」
律の言葉に、虚を突かれたみたいに恋は目を丸くした。
ひょっとしたら、ほんとうに、夏休みは誰とも会わない心づもりででもいたのかもしれない。だとしたら、それは粗忽というものだ。
「どうせ家でマンガでも読んでるだけなんでしょ? それとも」
律は目を細め、いたずらっぽく告げる。
「私と、狭く濃くなるのはいやかな?」
「まさか」
恋の手のひらが、律の手を、いっそう強く握ってきた。




