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第89話「ないものを無理矢理生じさせる趣味はないから」

 真夜中の車窓の景色に、うとうとと眠気を誘われたころ、ふいに声をかけられて阿野(あの)範子(のりこ)は現実に引き戻された。


「やっぱり範子さんだ。ごきげんよう」


 範子の席のはす向かいに、遠慮もなく腰を下ろしたのは、小田切(おだぎり)(あい)だった。彼女の手には、買ったばかりで湯気の立つ白いコーヒーカップと、この店のロゴがデザインされた紙のブックカバーで包まれた文庫本。


 ふたりがいるのは、駅とニュータウンのちょうど中間あたり、国道沿いにできたブックカフェだ。ツートンカラーのスタイリッシュな内装と、コンセプトのある品揃えを売り物にするタイプの店で、フードメニューはそこそこ。最新刊をずらりと並べる、というような棚作りではないので、目新しさはないが、安心感はある。

 範子はプラスチックのしおりを手中の文庫に挟む。夜行列車で行く東南アジアの旅は、しばらくお預けだ。


「ごきげんよう」

「10秒くらいかかったね」

「何が?」

「挨拶が返ってくるまで。時間の流れがいつもと違うみたい」


 さも愉快そうに愛はくすくす笑いながら、肩にかけていた無地の紙袋を隣の椅子の上に置いた。


「眼鏡、結局買ったの?」


 範子が訊ねると、愛はきょとんと顔を上げる。


「ええ。あれ、何で知ってるの?」

「さっき見かけた。フレーム比べて迷ってたから」


 ここに来る前、範子は駅ビルを歩いていて、眼鏡ショップの店頭にいる小田切愛の後ろ姿を目に留めていた。ふだんは眼鏡をかけていない愛が、どうしてだろう、珍しい、とは思ったものの、それ以上は特に何もせずに通り過ぎたのだった。


「えぇー、何で声かけてくれなかったの?」


 そんな範子の態度が大罪ででもあるかのように、愛はしごく不満げな顔をする。おとなしい顔立ちの愛が強い感情をあらわにすると、表情の強さがいっそう際だつ。眉間に数ミリだけ刻まれた皺も、なんだか山脈の谷底のように深く暗く見えた。

 範子は肩をすくめて、そんな愛の不満を受け流す。


「別に、用事なかったし」

「用事なんて、出会ってしゃべって、それからお互いの間に生まれて来たっていいと思うな、私は」

「ないものを無理矢理生じさせる趣味はないから」

「ふうん」


 首をかしげながら、愛はカップに口をつけ、ちいさく舌を出した。


「熱っ」

「……何でホット頼んだのよ。外も暑いでしょ?」

「暑いときこそよけいに熱いものが欲しくなる、そんな日もあるの」


 愛の主張は、まったく範子にはぴんとこなかった。キンキンに冷やした氷水こそ範子の夏の嗜好品で、むだな味すら必要ない。彼女の手元にあるのは冷えたストレートティーだが、ほんとうは水だけでもよかった。注文しないのも悪いと思ったので、いちばん味の薄そうなものを選んだのだ。

 範子はストローで、薄いストレートティーをすする。


「それ、おいしい?」


 テーブルの上に身を乗り出して、愛が範子の手元をのぞきこんでくる。思わず範子は身をのけぞらせた。口から離れたストローが、氷とぶつかってコップの中でくるくる回る。


「……愛さん、近い」

「え、そう? ごめん、加減したつもりだったんだけどな」


 つぶやきながら、愛は身を引いて席に戻る。範子は彼女の胸元に目をやりながら、カップが倒れないか、買ったばかりの本が汚れないか、そればかり気にしてしまう。


沙智(さち)さんにもさんざんいわれたし、気をつけてるんだけどね。癖で」

「……それで眼鏡?」


 ふと思いついて訊ねるが、またも愛はふしぎそうな顔。


「何の話?」

「いや、目が悪いせいで、顔近づけてるのかな、と思って」

「ああ、そういうわけじゃないの。視力は1.0はある」


 いって、愛は口元にかるく手を当てて上品な吐息で笑う。


「すごいね、範子さん。そのつながり、ぜんぜん思いつきもしなかった」

「そう?」


 そんなものだろうか、と首をひねる範子に、しかし愛は感心しきりで何度もうなずく。


「考えもしなかったよ。自分のことなのにね」

「まあ、自分のことだから、逆に考えないんじゃないかな」


 範子は、椅子に置かれた紙袋に目をやる。


「じゃあ、その眼鏡は伊達?」

「うん、フレームだけでレンズも入れてない。邪魔だからね」

「気をつけなよ。愛さんの間合いだと、絶対ぶつけそう」

「それも沙智さんにいわれた」


 苦笑しつつ、愛は指を立てて前後に揺らし、ちょん、と自分の頬骨あたりをつついた。すでに眼鏡をかけていて、そのフレームをもてあそぶみたいな仕草だ。


「範子さん、視力はいい方?」

「意外とね」

「意外ってことないでしょう。健康なんだもの」

「……だったらよけい意外よ。私、不健康そうに見えない?」

「それこそ自分でいうことでもないよ」


 愛の声は、範子を窘めるように、わずかに低く変わった。自虐めいた範子の軽口に、彼女のほうが本気で怒ってしまったような、ちぐはぐな空気がつかのま流れる。一瞬の沈黙。

 店内に流れる環境音楽が、ふわりと耳に触れた。本に夢中になっていても、愛としゃべっていても、ちっとも気にならなかった音が、唐突に範子の感覚を揺さぶる。

 落ち着かなくなり、範子は、反対側を向いていたストローを指先でつまんで引き戻し、口にくわえた。薄い紅茶の味が、舌の上で、やけに濃密に感じられた。


 その一瞬で、愛の面差しは、いつもの穏やかな微妙に戻った。


「病気自慢なんて、年寄りになってからで充分だよ。うちの祖父も、腰やっちゃってからすっかり気弱でね。実家じゃ愚痴ばっかりみたい」

「大変だね、そういうのも」

「いまのうちから鍛えとくのも、悪くないかもね。千鳥さんあたり見習って、歩いてみる?」

「目標が高すぎない?」


 街中を踏破しつくして、どこまでも行ってしまいそうな初野千鳥のペースに、寄り道もろくにしない範子が合わせられるとも思えない。ものの五分で足が震えだしそうだ。


 とはいえ、愛のいうことも一理ある。


「でも……千鳥さんは、すこし見習いたいね」

「お、ほんとにウォーキングしちゃう?」

「そうじゃなくて」


 範子は肩をすくめ、ストローからもう一口紅茶をすすった。

 その水面の揺らぎを、伏し目がちの視線で見下ろすと、夕闇の色が思い出されてくる。線路の上にたたずみ、薄暗がりと同じ色の目で、歩いては進めない道の果てを眺めていた彼女のこと。


 千鳥の気高さは、範子の胸の底で、冷たい輝きをまとって、消えない。


「ひとりになる方法」


 ちいさくつぶやく範子に、愛は一瞬、目を見開いた。それから、きゅっと眉をひそめて、ふたたび顔を間近に寄せてこちらをにらんだ。


「意地悪ね、範子さん」


 小田切愛にそうまでいわせたなら、光栄だ。範子はまた自虐気味に、内心でそうつぶやいて、愛を見つめ返し、告げた。


「だから、近いって」

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