第9話「実家にくらい、すっぴんで顔出せってさ」
お疲れ様でーす、と、閉まるドアの向こうに深々と頭を下げた。
電車がとことこと走り出し、桜川律は顔を上げ、満足げにほほ笑みながら流れていく風景を見送る。おぼつかない駅の照明の向こうで、さびしげな街は夜にさしかかって、静かに佇んでいる。古い看板の文字が、剥がれかかって読めなくなっているのも、今となっては景色の一部として溶け込んでいる。
別れの時間までイベントだ、と思っている彼女は、このひとときが長いアンコールのように思えて、好きだった。
「あ、やっぱ律さんじゃん」
声をかけられてどきりとした律は、車窓に映っている人影に一瞬、目を奪われた。
自分よりだいぶ背が高くて、顔立ちはきりっとして凜々しい。細い唇がうっすら端でつり上がって、何かに挑みかかるような攻撃的な雰囲気を宿している。
誰だったか、とっさに思い出せない。けれど知っている。
ゆっくり振り返って、正面から向き合う。その少女は、おそらく律の戸惑った顔に気づいたのだろう、かすかに笑って、おどけるように目をぱっちり開けた。
「あたし。わかる?」
「……るなさん?」
声で思い出した。同じクラスの西園寺るなだ。思わず口に手を当てて、律はまじまじと彼女の顔を見つめる。
「わあ、見違えたよ。メイクしてないと別人みたい」
「よく言われる」
肩をすくめつつ、るなは目を細めて律を見すえる。
「そういう律さんもなかなかのもんだと思うけど」
「う」
直球で指摘されると、なんだか急に恥ずかしくなる。
動きやすいように下はジーンズだし、カッターシャツの下にはまだ物販で買ったライブのTシャツを着込んだままだし、腰にはサイリウムホルダーまでぶら下げている。全身くまなくイベント帰りのアイドルオタクだった。電車に乗るまではウチワもカバンにさしっぱなしで、仲間にたしなめられたほどだ。
しかし、るなは、まったく別のことを口にした。
「似合ってるよ、ポニーテール」
「……そう?」
体育の時でもくくらない長い髪だが、ライブに参戦する時はもれなく後ろでまとめている。きつめに結い上げると、頭全体をぎゅっと締めつけて、気が引き締まる。そうすると、ステージ上の推しを見上げる意識にも変化が生じるように思えるのだ。
でも、それはあくまで心の中だけのこと。人に見せるにはちょっとみっともないかもしれない、とさえ思う瞬間があって、だから、友達の前では髪をくくるのは控えていた。
その壁を、るなはあっさり踏み越えた。
なんとなく、背筋を伸ばして、律はるなと向き合う。ドア脇の手すりに体重を預けているるなを前にすると、背丈の関係もあって、圧倒されるみたいな感じがある。
「るなさんこそ、今日はメイクなし?」
訊ねると、るなは苦笑しつつ、自分の頬を撫でた。
「そう。実家にくらい、すっぴんで顔出せってさ。目パチしてないと逆に落ち着かないんだよね」
「実家?」
「まあ、お祖父さまの家。月一で学校の報告してんの」
「はあ……」
翠林は伝統ある女子校だから、基本的に家は裕福だったり、格式高かったりする。るなの家もどうやら後者に属するのだろうが、正直、意外だ。
学校での彼女はギャル系のグループに属して、いつもキメキメの人目を惹くファッションを身にまとって、ミッションスクールなんかよりストリートのほうがよほど似合う。
そんな西園寺るなが、大邸宅の和室に正座して、白髪に長い髭の祖父と正座して向き合っている、とでもいうのだろうか。
きょとんとした律の内心は、るなには手に取るように分かるのだろう。ちいさく苦笑して、しかし、彼女は何も言わなかった。
たぶん、言葉で取りつくろっても仕方がないのだ、と互いに分かっていた。生まれと趣味は、彼女たちに常にまといついて、引き剥がすことなんてできないし、誤魔化すこともできない。
だったら、そのままでいればいい。ぎこちなく隠そうとするより、みっともない部分もさらけ出せばいいのだ。ステージを見上げる時のように。
夜がすっかり外界を支配して、車内の蛍光灯の明るさに安らぎが感じられるころ、電車はふたりの降りる駅に到着した。翠林の校舎が、夜景の奥に埋もれかけながら、うっすらと屋上の形だけを夜の底に彫琢している
律とるなは、そろってドアを出、ごたつく階段を降りていく。
改札に定期券を通しかけて、ふと、律はるなに訊ねた。
「その顔でうちに帰るの?」
「そっちこそ」
押し殺すような笑いが、同時にふたりの口からこぼれる。その瞬間に、ふたりはたぶん同志になって、これからの学校生活も見えない絆で結ばれていくに違いない、と、律はなぜか確信していた。
四列の改札を、ふたり並んで通り抜けた。