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第84話「見えない敷居の高さを気にしてしまうほうだ」

 駅の近くにある四階建てのビルの最上階にある、小学生を対象とした学習塾。道路を挟んでその向かいにある古いカフェの窓際の席で、妹の帰りを待つのが、火曜日の八嶋(やしま)(たえ)のいつものスケジュールだった。

 冬から春にかけては温かいカフェラテにしていたが、真夏にさしかかった今は、メロンフロートが定番だ。涼しげな緑色はふしぎと恋しさをかき立て、水曜あたりからもう店に来るのが待ち遠しくなるくらいだったが、だからといって一足早くカフェを訪れてフロートだけ食べたりはしない。別の曜日に食べるのはきっと違う味だし、そうしたら金曜日のメロンフロートまで台無しになってしまう。そんな気がしていた。

 そして彼女は黙々と、メロンフロートにスプーンをさしこんで、冷たいアイスをすくう。ソーダのぱちぱちする食感がアイスの表面に残って、妙の舌を甘く刺激する。


「妙さん、夏休みはどうすんの?」


 ずっと黙って味わっていたかったのに、向かいの席から声をかけられて、妙は仕方なくアイスを飲み込んだ。

 飯塚(いいづか)流季(るき)は、オレンジジュースを脇に置いて、テーブルの上に体を載せるようにしてこちらを見ている。妙はその視線にすこし怯みながら、首をかしげた。


「……家族旅行の予定はあるけど。あとは不明」

「旅行? どこ?」


 妙が日本一有名なアミューズメントパークの名前を口にすると、へえ、と流季が面白そうな顔をした。


「好きなの?」

「私じゃなくて、母親。あと妹も」


 暗くなっていく窓の外へと目をやって、妙はつぶやいた。右に左に、ヘッドライトが通過していく道路の向こう、ビルの上階に灯る屋内の明かりは、夜闇の中にぼんやりと浮かんで見える。年季の入ったガラス窓を透かして見る夜景は、どことなく現実感が乏しかった。

 肩をすくめ、妙は窓の下枠をさっと手でなぞる。


「特に母がね。こう、車のフロントガラスに人形をずらりと並べちゃうタイプ」

「なるほど」


 イメージがぱっと広がった、というように、流季はちいさく吹き出した。その笑み崩れた表情に、自然と妙の気持ちもゆるんでくる。メロンフロートにさしこんだままのスプーンを、指先でくるくるともてあそぶと、コップの底でちいさな音がした。

 すこし強ばっていた気持ちが、しだいに緩んでくる。あまり話したこともないとはいえ、クラスメート相手にそこまで緊張することもない。


 スプーンを持ち上げて、もうひとくち、フロートのアイスを食べる。


「それ、おいしい?」


 流季の問いかけに無言でうなずき、視線で彼女の横のオレンジジュースを示す。分厚いガラスのコップにうっすらと水滴がついていた。いっぱいに注がれたジュースは、わずかも減っていない。

 妙の目配せに気づいて、流季もジュースを口にした。とたん、ぱっ、と目を輝かせる。


「流季さんは、ここ来るの初めて?」

「うん。今日は、部活の先輩に誘われて、駅のほうに買い物で」


 言いながら、流季は小首をかしげる。


「妙さんは、慣れてる感じだね。私、こういう店ってあんまり来ないから、なんか緊張する」

「……それならどうして」

「いや、妙さん見かけたから、つい」


 頬を掻きながら笑う流季を見つめて、妙はなんだか釈然としない気分だった。そんなことで、入ったこともないカフェの重たい扉を押し開けられるというのは、妙の持ち合わせない感覚だ。


 妙自身も、見えない敷居の高さを気にしてしまうほうだ、とは思う。

 クラスメートと話す程度ならともかく、好きなバンドのライブに行くのにさえ躊躇うほどだ。何か準備不足ではないか、とか、暗黙のルールに反したりしないか、とか、そんなことばかりが気になって、心が雁字搦めになってしまう。


「妙さんとは、あんまりクラスでも話さないから。気になってさ」

「そう?」

「ずっと同じ学校に通ってても、謎の多い子、いるでしょ? 恵理早(えりさ)さんとか美礼(みれい)さんとか」

「あの辺と比べたら、私なんてぜんぜんだけど」

「いや、妙さんはわりと謎枠よ、私の中で。学校の外で何してるのか、想像つかないもん」

「……あんまり、そんなの詮索されても、困る」

「ああ、ごめん。詮索とかじゃなくて」


 前のめりになっていた流季は、妙の視線に押されたように身を退いた。オレンジジュースを口にして、息をついて、すこし間を置く。その間に、妙もフロートをひとくち。

 息を吐きながら、わずかに綿のはみ出した椅子の背に体重を預ける。黒々とした天井に、自然光の色の蛍光灯だけがやけに真新しくて、そこだけ後から付け替えたのが丸わかりだった。とはいえ、やわらかな色の光は、店の調度にもしっくり来ていて、空気を乱してはいない。

 流季のつかのまの早口も、あっという間に店の空気に馴染んで、解けてしまったみたいだった。


 流季の右手の中で、氷がからからと音を立てる。


「私は、わりと部屋にこもるほうだから」

「インドア派?」

「そう。パソコンで音楽聴いたり、文章書いたり」

「パソコンあるんだ? すごいね」

「父のお下がり」


 ごつくて黒くて古いから、あんまり妙の好みではない。けれど、ネット接続が速くて帯域を気にせず使えることと、動画をいくらでも突っ込めるところは、ほかに代えがたい利点だった。


「なんか、家族と仲よさそうね、妙さんち」


 不意を突かれて、思わず妙は椅子から転げ落ちそうになった。流季は今まで何を聞いていたのか、思わず眉をひそめてしまう。


「そんなこと……」

「だって、妹さんのお迎えでしょ? 家族で旅行も行くし、パソコンも」

「それ……」


 そういうふうに、見えるのだろうか。

 自分の中の感覚と、外から聞く感想が大いに食い違うのは、あり得ることだ。妙がずっと同じ家で生活しながら感じていることと、彼女の言葉に対する流季の感覚とは、ずれていたってしょうがない。

 釈然としない気持ちで、妙はテーブルに肘をついて、片手でアイスをすくう。アイスの上で踊る炭酸の味わいを感じながら、あわい夜の景色を眺める。いつのまにか夜は濃度を増して、塾の窓の光はなにか、ひどく孤独に、取り残されているかのように見えた。

 妹の授業は、もうすぐ終わるだろうか。


「うちは、母親が家事ぜんぜんできなくてさ」


 ふいに、流季の口元から、ちいさな声がこぼれ落ちる。


「稼いでくれるのはいいんだけど、そもそもろくに帰らないし、寝るくらいしかしないし」

「へえ」

「だから、うちでもわりと、忙しくて……」


 流季の言葉が、ふわりと宙に浮いたシャボン玉のように、消えてなくなる。振り返ると、流季はなんだか変な顔をして、こちらを見ていた。オレンジジュースのコップを思い切りあおり、いきなり咳き込む。


「げっほ! ……あーびっくりした」

「どうしたの急に」

「妙さんが話してくれないからだよ。だから私、つい」

「……いいじゃない。好きなんでしょ? お母さんのこと」


 さっきの流季の口調からは、親愛の情がひしひしと伝わってきた。家を空けていても、何もしてくれなくても、流季は母親を大切に思っているのに違いなかった。それが悪いことであるわけがない。

 流季は目をぱちくりさせて、つかのま、またふしぎそうに首をひねる。


「う……うん」

「じゃあいいじゃん」

「でも」


 流季が口を開きかけたとき、ビルの出口から、子どもたちがどやどやと外に出てくるのが見えた。


「あ、もう出てきちゃった」


 流季と喋っていたら、メロンフロートを半分も食べ切れていない。妹を待たせて、不安がらせるわけにはいかない。残していくか、いっぺんにかきこむか。


「妹さん?」

「うん」

「行ってきたら? 私、待ってるから」

「いや、すぐ帰るし」


 そう言って、すこしもったいないけれど、残ったフロートとメロンソーダをまとめて口に流し込んだ。口の中でごちゃごちゃに混じり合う味は、いつも堪能していた落ち着きある妙味とは違って、けれど、意外と悪くない。

 レシートを手に席を立ち、妙はきびすを返す。そこに、流季が声をかけた。


「また来てもいい?」

「それは流季さんの自由よ」


 その言葉に、流季はなんだかすごく満足そうに微笑んだ。かるく手を振る彼女の指先は、運動部とは思えないくらいに繊細そうで、妙は一瞬目を細め、手を振り返した。

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