第83話「無言で結ばれる、おぼろげな紐帯」
美しく整えられ、明るく光に満たされた世界にも、自然と陰は生じる。清浄さと静謐を旨とする翠林女学院の高等部においてもそれは例外でなく、ときおり、まるで砂埃の吹きだまるように暗い秘密が生まれてくる。徐々に、ひそやかに、そして確実に、生まれ育つ。
その場所は、たとえば晴れやかな礼拝堂の片隅であったりもするし、金網の下の花壇であったりもするし、裏庭の片隅の大木の下であったりもする。
そしてそれは、校舎からも通用門からもプールからも程良く離れた、住宅街と敷地を仕切る塀のきわ、使われなくなってペンキの剥げた百葉箱のそばだった。
「……あら」
うつむいて歩いてくる大垣風夏の姿を見て、舟橋妃春はつい、声を上げてしまった。
風夏は、飛んできた紙屑が顔に当たったみたいに、驚いて目をしばたたかせた。そして妃春の顔を見て、不愉快そうな、ばつが悪そうな難しい表情をする。
そして何もいわず、風夏は妃春のかたわらを通り過ぎた。短い髪をいくぶん無理にアップにして結わえているのが、どうにも窮屈そうだ。結わえそこねた髪が、後れ毛といっていいのかためらうくらい、うなじにたっぷり残っている。
風夏が校門のほうに歩いていく間、妃春は、その中途半端な彼女の髪がそよ風に揺れるのを見ていた。その姿が消えてから、妃春は改めて、目的の百葉箱へと向き直った。
かつては日々の天候の記録のため、ひいては学院自体の出来事の記録のため、この百葉箱は時の生徒会執行部によってつねに管理されていたという。
しかし、天候の記録は教会のシスターの管理下に一元化され、学院の記録は分厚い紙の日誌から電子化されてた。妃春もときおり執行部の日誌を任されているが、その過去の記録もかるく15年以上はデータ上で遡れる。紙の日誌は、フォルダにまとめられて役員室のロッカーの奥に眠っているらしい。
そして、日々管理されるべき温度計や湿度計の手入れもおろそかとなって、いつか百葉箱の存在は顧みられなくなった、という。古株の先生に話を聞いても、百葉箱を利用していた記憶はあいまいだ、と答えが返ってくるらしい。公的には、忘れられた存在だった。
妃春は、その忘れられた百葉箱の前に立っている。風雪に負けてなかば裂けた戸板の、むき出しになった木目がひどく傷ましい。彼女はその戸板の端にネジで固定された、さび付いた小さな錠前に目をやる。
そっと触ってみる。鍵がかかっている。
噂がほんとうなら、たぶん鍵は風夏が持っている。
それは、期末試験のすこし前からそこかしこでくすぶっていた噂で、7月に入ってから本格的に広まりだしたらしい。ほとんど1年生の間でのみ広まっていて、妃春も話を聞いたのは三津間百合亜からだ。
彼女の聞いたところによれば、校庭隅の百葉箱の鍵が、生徒たちの間で手に手に受け渡されているという。職員室から盗まれたとか、運動部のロッカーに置き忘れられていたとか、鍵の出所は諸説あるらしい。礼拝堂の救世主像から降ってきたという荒唐無稽な話もあるとか。
その流浪の鍵を受け取った生徒は、百葉箱の錠を開ける資格を得る。その彼女は、百葉箱のなかに、なにがしかのメッセージを残さねばならない。
ただし、メッセージは、文字でも声でもあってはならない。言葉では駄目なのだ。その点は、誰もが一致して語り、どんな噂の異聞においても共通している。
たとえば、複雑に畳まれた折り紙の折り目。あるいは、描きかけた塗り絵の色の塗っていない部分。使い残しの香水の混ぜもの。公園にいる鳩の足跡の写真。
そうしたものが、メッセージとして利用される。正しく伝わる可能性などなきに等しく、そもそも送り手自身、意味があるとも思っていないかもしれなくとも。
メッセージを残した生徒は、あらたに、別の生徒に鍵を渡す。直接手渡しすることが望まれ、渡す瞬間を人に見られてはならない。
そんな一連のプロセスが、人目に付かない学院のどこかで、行われているという。
妃春が百葉箱を訪れたのも、その噂に興味を覚えたからだ。
生徒会執行部の一員として、放っておけなかった、という外面の理由はある。公に利用されていなくとも、百葉箱は学校の備品であり、勝手に鍵を開けたり中を荒らしたりするのは、好ましい行いではない。詳細を調べ、問題があれば報告する。そういう意図があるのだ、と、説明することもできる。
しかし、ほんとうのところは好奇心だ。それは自分でも認める。
学校のどこかで、言葉を用いずに行われる、秘密めいたやりとり。無言で結ばれる、おぼろげな紐帯。その存在に、妃春はやけに、心を揺さぶられた。
誰かがほんとうに鍵を手渡してくれるのを、待ってもよかったかもしれない。
けれど、鍵を受け取った誰かが、次の相手として妃春を選んでくれるとはとうてい思えなかった。自分がそんなに、誰かに信頼されたり、話しかけられたりするほうではないのも、自分で知っている。
だから、軽率だとわかっていても、噂の舞台をじかに訪れることを選んだ。
かすかでも、噂の一端に触れることができるのではないか、と、期待した。
結果として、風夏には悪いことをしたと思う。
彼女がほんとうに鍵を持っているのかどうかも、よく考えれば不明瞭だ。ひょっとしたら、妃春と同じ、単に噂に興味があるだけかもしれない。
どちらにしても、風夏だって、ここにいるのを他人に見られたくはなかったろう。
もう一度、百葉箱の扉に触れる。鍵は開かなかった。
箱の中のメッセージには、妃春は手を触れられない。
グラウンドのほうから、運動部の生徒の喚声が聞こえてくる。夏の夕刻、湿度も上がって、野外の運動はことさら体力を消耗することだろう。そんな中でも、彼女たちは意外なほど、一生懸命に練習に取り組み、声を出し合っている。
妃春はきびすを返した。少女たちが駆け回り、汗を流す姿を横目に、グラウンドの端を横切って、校舎のほうへ。保健室や職員室の前を通り、玄関へと戻っていく。
下足箱の前は、薄暗い。もっと日の入りの早い時期なら、この放課後の時間帯には蛍光灯をつけている。なまじ外が明るいせいで、校舎の電気の使用は節制され、校舎の1階全体にどこか、幽霊譚じみたほの暗さを生み出している。
その、蒼然とした廊下に、風夏の姿があった。誰かと話しているふうだったが、話し相手の姿は、下足箱の奥に隠れてうかがえない。
「あっ」
ふいに、風夏が、妃春の気配を感じて振り返った。
同時に、人の走り去る足音がする。はっと風夏がそちらに目を戻し、つかのま、ひどく悄然とした表情になった。
肩を落とし、風夏はふたたびこちらを見た。なんだか、ひどく申し訳ない気分になったけれど、何といっていいものかわからず、妃春はちいさな声で、つぶやいた。
「……邪魔だったかしら」
「そういうんじゃないよ」
風夏は首を振って、一瞬、妃春をじっと見つめた。たぶん、向こうからも、妃春の顔はあまりよく見えていなかったろう。夕方の陽射しが、校庭の地面に跳ね返るようにして、妃春を背中から照らし、彼女の姿をあいまいにしてしまっているはずだった。
そして、風夏は長く嘆息した。それから下足箱へと歩を進めると、いささか荒っぽい所作で靴を三和土に置き、押し込むようにして履いた。
「はしたないわよ」
思わずそういってしまった妃春を、風夏はちらりと一瞥した。
「いいじゃない、このくらい」
ふっと笑って、風夏は妃春の横から、玄関を出て行く。
すぐそばを通り抜けていった風夏のかすかな気配が、妃春の二の腕の肌にしばらく、残っていたような気がした。




