第81話「焼きたてのクッキーだってノスタルジックな思い出の色になる」
両腕を広げたくらいの幅がある、巨大なオーブンを開けると、粉と砂糖がほっこりと焼けた甘い香りがふんわりと立ちのぼってきた。
人や動物や星形、いろんな形のクッキーが皿の上に並ぶ様は、にぎやかなパレードを思わせる。ここにチョコペンで模様を描き、銀や赤のアラザンを散らして、いっそう華やかな祝祭を生み出す。
「いい出来」
かわいらしいポンポンのついた鍋つかみをしたまま、近衛薫子は満足げにうなずく。彼女を手伝ってくれた内藤叶音も、なんだか嬉しそうだ。
「まあ、このくらいならちょろいもんね」
「ずいぶんな自信だこと」
肩をすくめて薫子は笑う。実際、お菓子作りが趣味だという叶音にしてみれば、クッキー作りなどお手の物だろう。薫子が手伝ったのは4,5回ほどだが、叶音がしくじるのを見た覚えはない。
実は、叶音はかなり細やかでこだわりの強い性格だ。見た目は軽い印象だが、金髪の念入りな染め具合も、抑えの効いた化粧も、彼女のそういう完全主義のなせる業と言える。
クッキーの載ったオーブンシートを、テーブルの上の網に移す。ずらりと並んだクッキーが次第に冷えて、人の手に取れる温度になるまで、もうすこし時間がかかるだろう。
冷めるのを待つ時間は、なんとなく、椅子に座るのがもったいなく思える。薫子と叶音は、オーブンの前に立って、時が過ぎるのを待つ。
「これ、写真に撮っておこうかしら」
「あ、それいい」
薫子はテーブルの隅に置いてあった自分のスマートフォンを手に取り、ずらりと並んだクッキーを撮影する。叶音はその画面を、横からのぞき込んでくる。
「かおさんの写真、雰囲気あるよねえ」
「特殊効果をつけていじってるだけよ、プリと同じ」
フィルターをかけて色調を変えれば、焼きたてのクッキーだってノスタルジックな思い出の色になる。写真を撮るのが、時間を操作するのと同じような手応えを持つことに、薫子は最近気づき始めた。
「叶音さんも撮っておけば?」
「んー……そうね」
ちょっと迷って叶音はうなずき、自分のスマートフォンで撮影する。いつものように、コメントをつけてネットに放流するような仕草をしていた彼女の手が、ふと止まる。
「これはちょっとやめとこうかな」
最後の送信ボタンを押さずに、叶音はスマートフォンをタップして写真を保存した。
「あれ、気に入らなかった?」
「そういうわけじゃないけど」
叶音は、どことなく歯切れの悪い声でつぶやき、画面をじっと見つめている。それは昔のテレビの映像を思わせるちゃちな色合いで、クッキーがおもちゃの積み木のように安っぽく映っていた。
「おままごとみたいね」
画面をちらりと見て、薫子はからかうように言った。叶音は薫子に目を向けて、いたずらっぽく笑う。
「かおさんも、おままごとなんてしたの? 習い事でスケジュールぎゅうぎゅう詰めだと思ってた」
「遊びも情操教育の一環よ。適度に気を抜かないと良い子に育たない、というのが我が家の理念だったから」
プラスチックのおもちゃを家具や食べ物に見立て、同い年の友人といっしょに、大人のふりをする。幼児に出来る精一杯のその背伸びと今を比べれば、実物を取り扱えるだけ今の方がよっぽど成長してはいる。
でも、ちいさな頃のあの空想の楽しさが、クッキーのリアルな甘い香りで代替できているのか、というとそうでもない気がした。
ままごとには、それ自体の楽しさが宿っていたと思う。
「叶音さんは、ちっちゃなころは何をして遊んでいたの?」
そう問うと、ふいに、叶音は不愉快そうに眉間に皺を寄せた。さっきまでののんきな表情からの変貌ぶりに、薫子はむしろ心配になる。
「どうしたの? 何か悪いこと訊いたかしら?」
「いや、違くて。なんでか、ここんとこちょくちょく昔のこと話す時多くて、こう、決まりが悪いってゆか」
「ふうん……?」
「昔は、芙美さんとずっといっしょでさ。あの頃はあたしのほうが、ずっとおとなしかった。芙美さんはお転婆で」
「……想像できないわね」
そう言いながらも、薫子の脳裏には当時のふたりのイメージがぼんやりと浮かび上がっている。まだ黒髪の、ちっちゃな叶音が、同じくちっちゃな新城芙美の後ろにくっついている図は、意外としっくり来た。
「笑うなよ」
「笑ってないわよ」
薫子はそう言うが、頬に浮かんだ表情は隠しようがない。叶音は無言で、かるく薫子の脇腹を小突いた。
「叶音さんこそ、おままごとは好きだったんじゃないの? なんとなく、そういうイメージ」
「まあ、嫌いじゃなかったけど……それよりは、人形とかが好きだったかな。動物の奴とか」
「インドア派?」
「そうそう。ひとりでジグソーパズル作ったり」
つぶやくように言った叶音の口元に、ふっ、とほほ笑みが浮かぶ。
「昔、芙美さんといっしょに、ふたりでめっちゃ精密なドールハウス作ったことがあるよ。初等部の、5年の時」
ふと、叶音の目が、遠くに焦点を合わせるように揺れる。彼女の目に、一瞬、過去のセピア色がよぎったように、薫子には見えた。叶音は、追憶の中の家を、目の当たりにしているのかもしれなかった。
「あれ、部屋のどこかにまだしまい込んだままだよなあ……それとも、芙美さんの家にあるんだっけ? かおさんにも、いっぺん見せてあげたいんだけど」
「そんなにすごいの?」
「たぶん、小学生向けの奴じゃなかったんだと思う。大人の本気の奴、っていうか……屋根のタイルとかめっちゃリアルだし、植木鉢にめっちゃ細かいパンジーの花が咲いててさ。ミニチュアで花の種類が分かるのってやばいよね」」
「それは気になるわね……」
叶音の言うことがほんとうなら、確かに一度見てみたい。でも、記憶の中でディティールが過剰に付加されているかもしれないし、実際に見たらたいしたことはない、という可能性もある。
……そんな意地悪なこと、言えるわけがない。自分の考えに、薫子はすこし、驚いていた。
「あれこそ、ちゃんと写真撮っといたらよかったんだけど。ふたりだけの秘密、ってことにして、片付けちゃったんだよね」
残念がる叶音の横顔は、言葉と裏腹に、どこか満足げでさえあった。まるで、何も証拠が残っていないことが嬉しい、とでも言いたげな。
秘密を秘密のままにしておけることの方が、価値がある、とでも思っているみたいな。
「もったいないわね。見てみたかったわ、それ」
だから、あえて薫子はそんなふうに言った。
叶音はこちらに横目を向け、肩をすくめる。
「今度、探してみる」
「期待してるわ」
言いながら、薫子は、テーブルの上のクッキーに手を伸ばす。ひとつつまむと、ほどよく残るあたたかみが、指先からじわっと肌の奥に染みてくる。
「ちょうど良さそう。おひとつ、どうぞ」
あえて自分では食べずに、叶音にクッキーをさしだす。プレーンで彩りのない平板なクッキーを、叶音は、薫子の指からつまんで、口に入れる。
ほろほろと崩れるクッキーの食感。叶音の口の中に広がるそれを、薫子はイメージした。
「うん、いい出来」
叶音はうなずいて、ずらりと並んだクッキーを見下ろした。
「これならみんな、喜んでくれそう」
ふたりでは食べきれない量のクッキー。叶音が言うには、芙美やるなや真鈴にもお裾分けしたい、ということだった。
これから、クッキーにはデコレーションが施されて、華やかな色と味覚を添えられる。ひとつひとつが個性あふれる、手作りの味わいを増した素敵なものになるだろう。
でも、今この瞬間の、飾らない素朴な味は、この時だけのものだ。
「……私も、ひとついただくわ」
つぶやいて、薫子は、星形のクッキーを、口に放り込んだ。




