第80話「おっきなセントバーナードを散歩させてる奥さんがいるのね」
休日の駅前のスクランブル交差点、西園寺るなに手を引かれながら、新城芙美はちょっとしたデジャビュを感じていた。こういう状況を、どこかで見たことがある。
「ほら、急いで急いで。すぐに赤になるよ」
「待って、るなさん、早い、早い……」
るなは半ば駆け足で、横断歩道の白線を1本飛ばしで踏んでいく。芙美はふだんの3倍急いで、ようやく彼女に追いついているという具合だった。
ふたりが横断歩道を渡りきった直後、”通りゃんせ”のメロディが止まって青信号が点滅し始める。人の流れが緩くなった路上で、ようやく芙美は立ち止まって、ふう、と息をついた。
「るなさん、足早い……ていうか、よく、その靴で走れるね」
るなの足元は、ヒールが5センチくらいあるレースアップブーツだ。もともと長身のるなが履くと、彼女のスリムさと足の長さがいっそう映えて、セレブな海外のモデルのようにさえ思える。芙美は一瞬、憧憬混じりの目で彼女を見上げた。
見下ろしてくるるなの微笑みは、余裕に満ちている。
「慣れれば平気。ようはバランス感覚よ」
「体育も、そのくらいちゃんと走ればいいのに」
「それとこれとは別」
あっさりとるなは言い捨てた。芙美は、そんなさばさばしたるなの仕草に、つい、ちいさく吹き出す。るなが眉をひそめる。
「何」
「ううん……自分で言っといて何だけど、いまのるなさんに、体育ってぜんぜん似合わないよね」
るなの休日のファッションは、雑誌から抜け出してきたみたいにばっちり決まっていて、学校での彼女とは別人のようだった。垢抜けない体操服を着て、だるそうにグラウンドを周回する姿など、想像もつかない。
自分のそばにいるのが、西園寺るなであることに、今さらながら芙美はふしぎな感銘を覚えていた。
「つか、学校の話なんてしないでよ。せっかく試験も終わったのに」
るなは肩をそびやかして、きびすを返して歩き出す。その仕草さえ、ドラマのワンシーンみたいに思えた。
「ああ、待って待って」
「急がないと席埋まっちゃうよ」
長い歩幅で、ファッションビルの入り口に向かっていくるなを、芙美はばたばたと追いかける。背の高いるなによたよたとくっついていく彼女の姿が、ショーウィンドウのガラスにうっすらと映った。
みっともないくらいに前傾姿勢の芙美と、その前を堂々と行くるな。
芙美は、ようやく思い当たった。
「うちの近所にさ」
「うん?」
自動ドアを通り抜けたるなが、小首をかしげて芙美に振り返る。ドアの向こう側とこちら側で、ふたりは一瞬目線を合わせた。
芙美は苦笑しながら、つぶやく。
「夕方に、おっきなセントバーナードを散歩させてる奥さんがいるのね。そのバーナード、すっごく元気で、奥さんはいっつもリード持ったまま、ずるずる引きずられてくみたいな感じになってて」
「で?」
「いまの私とるなさん、そっくりだな、って」
「……芙美さんの首に縄つけて、引きずっていきたくなった」
「あわ、ごめんなさい!」
手をバタバタさせて謝る芙美の襟元を、るなはむんずとつかんだ。さすがに引きずりはしないながら、背中を押してぐいぐいと、るなは芙美の体をビルの中へと押し込んでいく。
芙美は身を縮めて、るなの横顔を見上げる。
彼女は仏頂面で、フロアの真ん中のエスカレーターを見すえていた。口元も、微妙に固く引き締まっている。その硬質な横顔は、いくぶん怒っているのかもしれなくて、芙美はいっそう胸が竦む。
るなの歩幅は相も変わらず大きく、それに押される芙美の足は、いまにもつんのめりそうな忙しない動きを繰り返す。
とん、と、かるく背中を押されて、芙美はエスカレーターに乗った。るなは、そのすぐ後ろ。
ようやく足を止めることができ、芙美はちいさく息をつく。
「……ていうかさ」
るなの言う声は、不機嫌なようでもあり、不安なようにも聞こえた。低くて平板な、探りを入れる類いの声。
「人を犬呼ばわりは、さすがに失礼だと、さすがの私も思うわけ」
「……ほんとにごめん」
「それとも、私、そんなに強引だった? 別に、来たくなかったんなら、断っても良かったのに」
「それは」
エスカレーターに乗る時間は10秒もない。1フロア上がって、くるりと向きを変えて、また次の10秒。
平泳ぎの息継ぎのように、次のエスカレーターに移るまでの間、ふたりは無言だった。
ふたりは、また上下の段に分かれて、エスカレーターに乗る。段差のおかげで、るなの目線の高さはさっきよりも芙美に近かった。
「……いやじゃなかったけども。ただ、どうして私なのかな、とは思った」
「だって、叶音さんは薫子さんと遊ぶっていうしし、真鈴さんもやっぱし忙しそうだし」
「私は補欠?」
「4人でわいわいできたらベストだったけどさ」
3階。映画館のあるフロアは、もうひとつ上だ。
「でも、芙美さんとふたりってのも、悪くないって思ったよ、私は」
「……そうかな。釣り合わなくない?」
「いちいち、そんなの気にしてたらきりがないよ。友達なんて、絶対どっかではちぐはぐだったりするんだから」
4階に着くと、シネコンのチケット売り場はそこそこ賑わっていた。芙美たちと同じように、翠林や、よその高校の生徒たちも、試験終わりではっちゃけているらしい。どちらかといえば男子の声の方が大きくて、芙美はすこし、腰が引ける。
その腰を、ぽん、と、るなが押した。
「ほら」
「……うん」
目当ての映画の入りは6割といったところだった。るなのリクエストであるその映画は、海外でいくつも賞を取ったという恋愛映画だ。彼女の好きな女優が主役で、批評家や批評サイトでも絶賛、という情報を、芙美は映画の公式サイトで入手していた。ストーリーや画面写真もちゃんとチェックして、きちんと期待を高めてきたつもりだ。
ふたりは、いちばん後ろの方の席を取った。
「私、後ろの方の席、好きだよ。なんか、落ち着く」
「同感」
芙美の言葉に、るなはうなずいてくれた。
開場までは、もうすこし時間がある。混み合うロビーの片隅で、ふたりは新作のチラシを物色しながら、時を待つ。
「……ていうか、るなさん」
「今度は何」
「その靴、映画観てると邪魔じゃない?」
「……だからって脱ぐわけにもいかないっしょ」
憮然とつぶやくるな。さすがに、自覚はあったらしい。ぎちぎちに締め上げられたブーツの紐を見下ろして、芙美は苦笑した。
「ちゃんと後のこと考えて選びなよ、靴ぐらい」
「そういう問題ではないの。利便性だけがすべてじゃないんだから、ファッションの世界は」
「そんなもんかなあ。歩きやすい靴でいいじゃない」
「はいはいそうね、スニーカー最強よね」
「あー、馬鹿にしてる! 軽くて強くて便利なんだからね!」
「馬鹿にはしてないって。うちにもあるよ、スニーカー。5足」
「え、5足?」
「……毎日同じの履いてると、すぐ履き潰しちゃうよ。複数使い回した方が、結局は長持ちするし、飽きないし、お得だよ」
「そうか……」
「映画終わったら、靴買いに行こうか?」
「そんなお小遣いないって!」
「えー」
しごく不思議そうにるなが顔をしかめるので、芙美はあきれて肩を落とした。やっぱり、るなは根っこの所でお嬢様で、芙美とはどこか噛み合わない。
けれど、だからこそ、まるで水が上から下に流れるみたいに動きが起こるんだ、とも思う。
開場時刻になり、ふたりはシアターのいちばん後ろ、真ん中の席に並んで座る。そうすると、靴のハンデがなくなって、ふたりの座高は意外と近いんだと気づく。
劇場が暗くなると、いよいよ身長なんて関係なくなって、すぐそばにいるるなの気配だけが、とても近しく感じられる。るなのかすかな呼吸が、くっきりと、彼女の耳に届くようにさえ思われた。
そして、映画が始まる。




