第79話「最後の謎みたいなものでしたから」
学院のそば、国道に向かう通りの脇にある大きな洋品店を出て、香西恋と光原青衣は、ふと目を見合わせた。
「すこし、どこかで落ち着いていきます?」
「ええ。休まないと倒れそう」
「まだ暑いですものね……」
首を巡らした恋の目に入ったのは、青い看板のコンビニだ。イートインコーナーもあり、淹れ立てのコーヒーも飲めるともなれば、カフェ顔負けとも言っていい。地元の小学生や老人が居座っていることも多いが、いまは空いているようだった。
「青衣さん、コンビニコーヒーはお好きですか?」
「コーヒーは苦手。でも、安いお菓子は嫌いじゃない」
青衣が淡々と言うのに、恋はすこし笑う。
道を渡ってコンビニに入ると、自動ドアから漏れ出た涼気がふわりと恋の顔に流れてきて、一瞬目を細めた。かたわらの青衣も似たような顔をして、恋はまたすこしおかしくなる。
恋はカフェラテを、青衣はビスケットとペットボトルの紅茶を買った。店のレジの脇から張り出すように設置されているイートインコーナーは、ブラインドが下げられてそこはかとなく薄暗い。きつめの照明も手伝って、病院の売店を思わせた。
真っ白いテーブルに腰を下ろす。椅子は固くて、長居するにはあまり向いていなさそうだ。隣の席では、椅子から半分以上ずり落ちるようにして座っている男の子たちが、携帯ゲームに真剣な目つきで興じている。
洋品店の紙袋を脇に置いた恋は、ビスケットの包み紙を破る青衣の指先を、じっと眺める。よく見れば、その指はとても丁寧に動いていて、ビニールを縦に裂くだけの行為が何か、お菓子にふしぎな魔法でもかけているかのように思える。
「飲まないの?」
目を上げた青衣が、ちょっと首をかしげる。異様なくらい白い外装の前で、青衣の黒髪がゆらっとかたむくのが、景色からうっすら浮き上がって見えた。
恋はうなずいて、ストローにかるく口をつける。ラテのやわらかな味が、じんわりと口中に染み渡った。歩くだけで汗をかくような真夏の熱を、ようやく解消できた気がする。
「そんなにおいしい?」
青衣が首をかしげたまま問う。ストローを唇の端にくわえたまま、恋は眉をひそめる。微妙に間を置いて、青衣は言葉を継いだ。
「……恋さん、やけに嬉しそうだから」
「そうですか?」
すぐに汗をかいたプラスチックのカップをテーブルに置いて、恋はかるく顔に手を当て、自分の頬がわずかに笑んでいるのに気づく。
「きっと、青衣さんといるからですね」
「……私?」
「ええ。わたしにとって青衣さんは、最後の謎みたいなものでしたから」
「何それ」
いぶかしむ青衣。恋は、テーブルの上ににじんだ水滴をかるくいじりながら、言葉を選ぶ。人差し指の先で、水滴がつながりあって、横長の楕円になる。
「撫子組の、だいたいの生徒のことは、おおよそわかったつもりなんです。3ヶ月ほど、観測していましたから」
授業中でも暇さえあればクラスの女子を眺めている恋は、同級生の人となりはおよそ把握している。クラスにあまり寄りつかない舟橋妃春でも、ときおり生徒会の仕事をしている姿や、上級生と会話をしている様子から、意外と表情豊かな側面があることを知っている。
そんな恋でも、青衣のことはよくわからないままだった。
恋の知っている青衣は、おだやかに喋ることと、私服の趣味がゴスロリなこと、どうやら音楽が好きらしいことくらい。けれど、いつもイヤホンの中で流れている曲がどんなものなのかも、恋は知らない。
それは、彼女の頭の中を知らないのにも等しい。
「青衣さんは、いつも放課後もすぐ帰ってしまいますし。プライベートで何をしているのか、よくわからなくて」
「べつに隠してるつもりはなかったんだけど」
「ええ。わたしが勝手に推測していただけですから」
そうして、あっという間に教室を出て行く青衣の後ろ姿を、なんとなく確認するのが、恋の趣味のようになっていた。
決して急ぐのではないけれど、迷いのなかった彼女の足取りの向こうに、何が待っているのか。
その謎が、恋をゆるく、惹きつけていた。
「でも、お裁縫なさってるなんて、予想外でした」
「始めたのは最近だけどね」
「やはり、ゴスロリ服?」
「うん。まだ、人に見せられるようなものじゃないけれど。恋さんは?」
「わたしは自分ではぜんぜんです。今日のも、母のお使いで」
他愛ない話さえ心地よい。こんな何事でもない会話が、恋は好きだった。
青衣の、どこかぼんやりとして焦点の合わない瞳が、恋を見つめている。ようやく見つけたこの時間を、恋は、大切にしたかった。
「外でも、そういう服を着ているのですか?」
「むしろ、着て歩くほうが多い。ご近所では、ちょっと噂になるくらいよ」
「へえ……」
「逆に恋さんは、私の噂を聞いたことない? なんだか妖精みたいな扱い受けてるらしいんだけれど。他の子は、わたしには直接聞かせてくれなくて」
首をかしげる青衣は、ほんとうにふしぎそうだった。どうして、自分のことなのに、知らせてもらえないのか。
でも、恋には皆の気持ちがわかる。幸運を呼ぶ妖精が、自分の力を知ってしまったら、逆にその幸運が消えてしまいそうな気がするものだ。
噂話というのは、そういう、どこか秘密めいたものを宿してこそ、力を持つ。
「知らないほうが幸せなこともありますよ」
「……まあ、いいけど。悪い噂でなければ」
「ええ。いまのところ、青衣さんを嫌っているような話は聞いたことがないですから」
「そう? 前に、つづみさんがわたしを悪霊だっていって除霊しようとしてた、って聞いたことが」
「……さすがにそれは冗談でしょう」
芳野つづみならあり得なくはない、と思わされるのはすこし恐い。けれど、いくらなんでも。
「そんな相手と、同じ教室で授業を受けようなんて思いませんよ」
「それはそうでしょうね。もしもその気なら、私のほうから呪ってあげるわ」
青衣はあっさりと言って、ビスケットを唇の端でかるくかじった。
ひょっとしたら、いまのは、青衣なりの冗談だったのかもしれない。笑うタイミングを逸して、恋はすこしうつむき、残るカフェラテに口をつける。カップの中で、氷が音を立てて転がる。
青衣の視線を感じる。マスカラとアイシャドウで、いくぶん不健康さを強調しているような彼女の目線は、ときおり、妙な引力を持つ。
吸い込まれそうに感じて、よけいに、顔を上げられなくなる。
かわいい女の子ならいくらでも眺めていられるのが、取り柄のつもりだったのに。
真正面から見つめられた程度のことで、目も見られないなんて。
恋が黙り込むと、青衣も喋らなくなる。彼女は丁寧にビスケットを食べ進めながら、紅茶のフタを開けようとして、ふと眉をひそめた。
「恋さん」
「……はい」
「握力、自信あるほう?」
青衣は、ミルクティーのペットボトルをこちらに差し出してきた。
恋は目を上げ、それを手に取る。冷蔵庫を出たボトルはあっという間に温度が上がって、恋が触れると、すでにいくぶんかぬるく感じた。
「開けられないなら、最初から、選ばなければよかったのでは?」
「……なんとなく。いまなら、いけそうな気がした」
「錯覚ですよ」
「それに、恋さんがいてくれるし」
あっさりと青衣は告げる。人任せにするのを躊躇わない彼女は、どうやら思いのほか、人に甘えるたちらしい。
どうにもこうにも、恋も、知らないことばかりだ。
彼女は苦笑しながら、ボトルのフタを簡単に開けた。ぷしゅっ、と、気持ちいい音がイートインコーナーに響き、隣の席の子どもたちが、揃って歓声を上げた。何か、強敵でも倒せたのだろうか。




