第8話「こんな身近に、手を触れられる別世界があるの」
朝からずっと垂れ込めていた雲は、下校時刻になってとうとう雨を地上に落とし始めた。その勢いは激しく、あっという間に地面が湿った色に染まる。
カバンと折りたたみ傘で身を守りながら砂利道を駆け抜ける生徒がいる。この雨の中では、制服の裾を乱さない、などといった翠林の生徒らしいたしなみにかまってはいられないようだった。
そんな後ろ姿を眺めながら、舟橋妃春は玄関マットの手前で立ち尽くしている。
「どうしようかな……」
困惑が口をついて出た。
天気予報は見ていたものの、これほどの本降りになるとは予想外で、今日は小振りな折りたたみ傘しか持っていない。といって、スカートが濡れるのを覚悟で雨の中を帰って行くのは、気が進まなかった。それは、彼女にはふさわしくないように思えた。
家に電話すれば、母も迎えに来てくれるだろう。そうでなくとも、”先輩”がすでに迎えを求めているかもしれないし、それに相乗りできれば面倒もなくていい。親の代から持ちつ持たれつの仲だし、気兼ねすることもない。
ただ、肝心の”先輩”はまだ生徒会室にいる。彼女の下校を待つとなれば、もうすこし時間をつぶさなくてはならない。
図書館にでも行こうか、と、妃春は踵を返す。
「帰らないの?」
自分が話しかけられたのだ、と気づかず、妃春は素通りしかけた。
しかし、声に聞き覚えがあったような気がして、視線をそちらに向ける。
下駄箱のそばにしゃがみこんで、妃春の方を見ていたのは、真木歩だった。
同じ1年撫子組、出席番号はひとつ違い。始業式から数日だけ前後ろの席だったから、顔と名前くらいは覚えていた。
「ええ」
素っ気なく返答して、妃春はすぐに立ち去ろうとする。その背中を、ふたたび歩が呼び止めた。
「雨はきらい?」
思いもしない角度の質問だったので、とっさに、妃春は反応できなかった。足を止め、振り向いて、歩の様子をうかがう。
彼女は、湿気を帯びていくぶん重たそうなスカートを両足の間にぎゅっと押し込めて、両手で膝を抱えた格好で、顔だけこちらを向いている。ふんわりしている髪が、湿気でいっそう膨らんでいた。
「……好きではないわ」
「やっぱり? 妃春さんも、たいへんそうだもんね、髪」
歩がくすくす笑う。からかわれているみたいで癪だったが、彼女の言葉には同意せざるを得ない。妃春の髪も、歩ほどではないとはいえ、妃春の髪も湿気で波打って、首筋や肩のあたりにまとわりついてくるようだった。
「私は好きだよ、雨」
「……そう?」
「空の色も、風のにおいも、空気の肌触りも、何もかもあっという間に変わるじゃない。それが好きなの」
言いながら、歩は視線を外へと移していく。妃春も、それに誘われるように、玄関の外に目を向けた。
視界一面、すっかり雨に覆い尽くされている。砂利道にできた水たまりが、立て続けに降り注ぐ雨粒を受けて、たくさんの黒い波紋を生む。水浸しになったグラウンドの向こうは、水煙で一面灰色になり、街の景色も見通せない。そして空には、あふれんばかりの黒雲。
「こんな身近に、手を触れられる別世界があるの。好きにならなきゃもったいないじゃない?」
心の底からうきうきしているような、ほがらかな歩の声。
それは、妃春の心の繊細な部分を響かせて、くすぐったいような、気持ち悪いような感覚をもたらす。
ふいの雨粒が、制服の襟の隙間から背中に入り込むのに、すこし似ていた。
「何か、わたしに言いたいことでもあるの?」
口をついた声は、険のあるものになった。
同じクラスになって、隣り合わせの席になって、それでもほとんど会話を交わさなかった相手。それが突然、こんなに饒舌に語りかけてくるなんて、奇妙に思えた。
クラスに馴染まず、休み時間になるといつも教室を出て行く。ほかの生徒とあまり会話せず、知り合いの上級生とばかり言葉を交わしている。
生徒会周辺の生徒たち、時に”ソロリティ”などと呼ばれる人々と関係を持ち、それに食い込もうとしているかのような態度の、舟橋妃春。
もしも歩が遠回しに、クラスに馴染まない妃春を非難するつもりだったら、真っ向から戦うつもりでいた。つまらない嫉妬や同調圧力になど、屈するつもりはない。
しかし、歩は、首をかしげるだけで、こちらを見もしなかった。
「考えすぎだよ」
歩の声は淡々と、まるで、雨の中に無造作に放り投げられていくみたいだった。降りしきる雨音はますます激しくなるけれど、その声はいささかも妨げられることなく、妃春の耳に届く。
「あんまり話したことなかったから、なんとなく声かけただけ。深い意味なんてないよ」
「ほんとうに?」
「疲れない? 何でもかんでも自分が主役みたいに思い込むの、さ」
声を上げそうになって、息を呑んで、けっきょくそのまま言葉にならず、妃春は深く息を吐く。
なおもけたたましく、四方八方から叩きつけてくる雨音が、妃春の耳に障る。まだ校舎には雨宿りしている生徒がいるはずなのに、下駄箱の周辺はやけに静まりかえっていて、歩と妃春だけが一対一で向かい合っているような気持ちだった。
髪にまとわりつく湿気が、ますます妃春の身を重たくする。じっとしているだけで水気を増す制服の生地に蒸されて、体の奥に熱がこもっていく。
「こんなふうにボタボタうるさいと、子どもの時のことを思い出すよ」
歩は、独白とも何ともつかない口調で、妃春の方を見もせずに言う。彼女のひとさし指が、リズムを刻むように膝を叩いている。
「近くの家の雨樋が詰まっちゃって、変なとこから雨水がばちゃばちゃ落ちてきてさ。それがなんでか面白くて、ずっと見上げてて。なんとなく法則があるような気がしてた」
ふっ、と、かすかな笑いを漏らす。
「それが分かれば、世界の掟がつかめるような、そんな気がする時ってない?」
歩の言葉は、妃春からはひどく遠い。彼女は、雨にそんな、真理を感じたことなんてなかった。雨は雨でしかない。
そんな何でもないものに閉じ込められて、妃春も、歩も、とてもちっぽけだった。
「雨、止まないわね」
妃春はようやく口を開いた。歩は振り返って、いたずらっぽく笑う。
「いっしょに帰らない?」
「……傘、あるの?」
「ちっちゃいのしかない。だから絶対、ふたりともびしょ濡れになるけど。そういうのもいいかな、って」
歩は、うずうずと膝を上下させて、立ち上がれる時を待ちかねているみたいだった。彼女の体が前後に揺れて、髪の毛がそれと同期する。妃春と同じくらいに湿気ているはずの髪が、やけに軽やかだった。
ちょっと背中を押したら、すぐにも本気で雨の中に飛び出してしまいそうだ。妃春は一瞬、思い切り突き飛ばしてやりたい誘惑に駆られる。
自分の方こそ、まるで世界の観察者みたいな顔をして、子どもじみた遊び心を忘れられていないではないか。そう言ってやりたかった。
けれど、そんなのは翠林の生徒に、”ソロリティ”を目指す人間に相応しくはない。
だから妃春は、首を振って笑った。
「お断りだわ」
「そう?」
「冒険ならひとりで行きなさいよ。人をむりやり付き合わせないで」
言い残し、妃春は歩に背を向けた。予定通り図書館に向かうか、それとも”先輩”に声をかけるために生徒会室に向かうか、迷いながら、人影のない廊下を進んでいく。湿ったリノリウムと上履きが触れるのは、ひどく不安定な心地だが、悪くない。
背中に、歩のかすかな笑い声が届いてくる。雨音はまだ衰えていないはずなのに、声はあざやかで、彼女のうなじに吸いついてくるみたいに、いつまでも聞こえ続けた。