第76話「ごく少数の生徒同士で、口伝えで場所を教え合っている」
古い廃屋のある角を斜めに入って、アオギリの枝が大きく張り出した細い脇道を進み、看板もない民家のような門をくぐって、外付けの階段を二階に上る。ぎしぎしと床板がきしむ音を聞きながら、引き戸を横に開けると、そこに小室雪花の目的地がある。
「いらっしゃい」
何十年も同じ顔をして住んでいそうな、歳のわかりにくい女性が、扉の横のカウンターで雪花を迎えた。ほのかに甘いにおいが、床や柱に染みついているみたいに、自然にあたりの空気に漂い出ている。
雪花はなんとなく頭を下げて、奥に入っていく。かんたんな座敷を衝立で分けただけのスペースに、こじんまりした卓袱台と年季の入った座布団が置かれている。卓袱台の脇には、色鮮やかな千代紙を貼り込んだ分厚い表紙のメニュー。中の、薄い和紙には、店の主人が手ずから記したというお品書きが書かれている。
この和菓子屋は、翠林の生徒でも知る人はそう多くない。表通りからも外れているし、看板も出していないから、知らなければ素通りしてしまう。ごく少数の生徒同士で、口伝えで場所を教え合っているという、このご時世ではなかなかお目にかかれない本物の隠れ家のような店だ。
当の雪花は、高良甘南に一度連れてきてもらった。甘南は、部活の先輩から教えられたという。
今日は、水泳部の練習で、自己ベストのタイムを出せた。たぶん、これが1学期最後で最高の記録になる。そう思ったので、自分にご褒美をあげるつもりで、取って置きの店を訪れたのだ。
雪花は適当な座敷に腰を下ろし、メニューを開きかけて、手を止めた。
視線、というより、明らかにこちらをのぞき込もうとする目の存在を感じて、雪花は振り返る。
衝立ふたつ分の向こうから、桂城恵理早が、こちらを無遠慮にのぞき込んでいた。
「お友達?」
お茶を出しに来た先ほどの女将が、柔和な声で言った。恵理早の不作法な態度も大らかに認め、むしろ面白がっている様子だ。
「同じクラスの子です」
「場所、移る?」
「ええっと」
雪花は別にどちらでもよかった。しかし、恵理早のほうが、いつまでも衝立越しにこちらを見ている。このぶんでは、落ち着いて食べられそうになかった。
「いいですか?」
「どうぞ」
お言葉に甘えて、雪花は恵理早のいる席に場所を移す。恵理早の向かいに雪花が腰を下ろすと、彼女は、つかまえた金魚から興味をなくした子どもみたいに、冷めた顔つきでお茶をすすった。
雪花は冷やし白玉ぜんざいを注文し、氷の浮いた緑茶をそっと口に入れた。湯呑みの中で心地よく氷のぶつかり合う音がして、夕方の熱でほてった体がひんやりと冷えていく感じがした。
くすんだ色の湯呑みを卓袱台に置き、雪花はようやく落ち着いて、恵理早に向き合った。
「何か、用事だった?」
雪花が訊ねると、恵理早はゆるやかに首を振る。
「こういう所で会うのは、珍しいから」
「それだけ?」
「大切なこと。きらきらする」
「きらきら、ね」
「人と会って、話すと、胸の中がくるくるしてくる」
そういえば、恵理早は実は話し好きなほうだ。一方的に自分の言葉をまくし立てるような所があり、しかも独特の言葉遣いをするので、あまりコミュニケーションは取れていないけれど。
だから正直なところ、雪花も恵理早のパーソナリティを詳しくは知らない。いまこうして、彼女に興味を持たれていることも驚きだった。
でも、こうして向かい合う機会があるなら、何も話さないのももったいない。
卓袱台の上の湯呑みに手を触れると、水面で氷が蛍光灯の明かりを跳ね返して光る。見えない棒でつつかれたように、ちいさな氷が水中で回転した。
ふと、氷になった気分になる。
水の底から日の射す青空を見上げた、小学生のころの気持ちを、ぼんやり思い出す。
「恵理早さんってさ」
思いつくままに、恵理早のことについて雪花が知っている数少ないことのひとつを、訊いてみることにした。
「水泳の授業、いつも出てこないよね」
「苦手なの」
「泳ぐのが?」
「違う。水のにおい。消毒薬のにおいかも。ぎゅうぎゅうされてる気分になる」
思い出させないで欲しい、というように、恵理早はきつく眉間にしわを寄せた。
「でも、全部欠席だと、さすがに補習になるよ」
補習といっても、適当に決められた距離だけ泳いで、その記録を自己申告で報告するだけだ。さほど厳しい罰則ではない。
とはいえ、補習は補習で、夏休みに登校させられるのには変わりない。そんなのはなるべく避けたい、と思うのが当たり前だと、雪花は思っていた。
けれど、恵理早は肩をすくめた。
「休みの日に学校来るのも、そう悪くない」
「……そうかな」
「家にいても、街にいても、あんまりくるくるしないもの」
「くるくる……」
「人が混じり合わないから」
恵理早の言葉遣いは、雪花にはピンとこない。同じような年代の、同じ性別の、しかも十年近く同じ学校に通っている生徒たちに、いまさら混じるも混じらないもない。すっかり色分けされきって、その区分けのままで交流しているだけ。雪花は、そんな気がしていた。
けれど、恵理早の認識は違うみたいだった。
「話しかけたことない相手、いるでしょう?」
「……うん」
かくいう、桂城恵理早にしてからが、雪花とはほとんど話したことがない。
雪花は、彼女は無縁の世界の住人だと、思い込んでいた。
だけどいまこうして、恵理早は雪花のすぐ目の前で、そっと湯呑みを口にしている。正座をすこし崩して、わずかに体を左に傾けている。額髪が斜めに落ちて、うすく湿ったように光る彼女の額は、目を見張るほど白い。
眠たそうなまぶたの奥で、深い色の黒目が、雪花を見つめた。
「そういう人に、声かける機会、学校の外だとあまりない」
「だから、あたしにも声をかけたの?」
「こうしてつかまえたら、うまくいきそうだった。ワクワクした」
色の薄い唇が、細く、微笑みの形を作った。
トレイを持ってやって来た女将が、羊羹とぜんざいを卓袱台に置いていった。小豆色の羊羹は、小皿の上で弾力を持って震えて、まるで生きているみたいだった。
「あとで、ちょっと分けてくれる?」
「そっちのも、すこしちょうだいね」
雪花と恵理早の間で、簡単に契約が成立する。雪花は、白玉を匙でひとつすくって、餡といっしょに口に入れた。上品な甘味と、白玉の柔らかな食感が混じって、口の中が幸せで満たされていく。
この幸せが長引くほど、たぶん、恵理早との時間も長くなるのだろう。
「じわじわしてる」
斜めに切り取った羊羹をひとくち飲み込んだ恵理早は、そうつぶやいた。
「それ、褒めてるの? ていうか、味の評価として、よくわからないんだけど」
「……難しい」
肩をすくめて、恵理早はお茶を口にした。和菓子の甘味は、それだけでも満足できるものだけれど、この店のお茶の渋みは、その甘露を幾倍にもしてくれる。
「言葉の使い方は、なかなか覚えられない」
「そんなものかな。私は、いつも、わりと適当」
「……うらやましい」
そう言った恵理早は、なんだか、ちょっと泣きそうに目を細めた。ずっと無表情の象徴のようだった黒い瞳が、その瞬間だけ、泡がはじけるように輝いた
雪花の手と、目は、しばらくの間、ずっと止まっていた。
はじめてプールに飛び込んだとき、青空に跳ね上がった水しぶき。水の中でくるりとひっくり返って、はじける水面を見上げたときの記憶を、雪花は思い出していた。
幼い記憶が、それから、恵理早の瞳と結びついて、ずっと離れなかった。




