第73話「印刷並みのクオリティにでも挑戦してるの?」
「風夏さん、お疲れですか?」
数学の教科書を広げたままぼんやりしていた大垣風夏の額に、ふいに、芳野つづみの手が触れた。白い手のひらはマシュマロのようにやわらかくて、ぴったりと風夏の額に触れてくる。
「……つづみさん?」
一瞬陶酔しかけた風夏は、はたと顔を赤らめ、机のかたわらに立つつづみに目を向けた。つづみはすぐに手を離して、いつもながらの怜悧な微笑で風夏を見つめる。
「熱はなさそうですね。寝不足でしょうか」
「そう、かな。ほら、試験前だし」
「急拵えの知識は長持ちしませんよ。日頃の学習が第一です」
「わかってるけどね」
両手で目をごしごしやって、ようやく風夏の意識が集中を取り戻す。霞みがちな目でノートを見下ろすと、途中から乱雑になった字が罫線の間でグニャグニャとうねっていて、何が書いてあるのか判別できない。
他のときならいざ知らず、たしか、この辺はテストに出ると言っていた範囲だ。
風夏は、すまなそうにつづみの顔を上目遣いに見やる。
「つづみさん……ノート貸してくれない? すぐ返すから」
「仕方ないですね」
そう言いながらも、つづみは快く、自分の席から数学のノートを持ってきて風夏に手渡してくれた。
「ありがとうありがとう、恩に着ます」
「そんなにしゃちほこばらないでも」
つづみのノートは、すべての線を定規で引いたのか、と思うくらいに几帳面で、ページをめくるのが憚られるほどだ。数式の中の「a」の高さは全部同じだし、「=」の線の幅さえ統一されているかのように見える。
「つづみさんは、印刷並みのクオリティにでも挑戦してるの?」
「……ノートですか? いえ、ただ、なるべく文字が揃っていないと気が済まなくて」
「ていうか、こんなにかっちり書いててよく授業についていけるね」
「慣れれば自然にできるものですよ。甘南さんのシュートのようなものです」
ふいにつづみが高良甘南を引き合いに出したのは、春先のバスケの授業のときに、彼女の正確なシュートを風夏がやたらに褒めたからだろう。自分でも忘れかけているのに、ときどきつづみが話題にする都度、思い出してしまう。
風夏の字は、お世辞にもきれいとは言えない。あとで自分が読めればいい、という考えのもとに、最低限の形を保つことだけを目的とした字だ。
「つづみさん、今後、勉強会とかしない?」
ノートを書き写しながら、風夏はなるべくさりげなく、つぶやいた。
「風夏さんとふたりで、ですか?」
「別に誰か誘ってもいいけど」
「ううん……でも、風夏さんとわたしとで、そんなに教え合うことがあるでしょうか」
つづみは乗り気ではない様子だった。確かに、風夏とつづみの成績はさほど変わらない。けれど、それを理由に拒まれるのは、なんだか違和感がある。
「いっしょに勉強したほうが捗ることもあるんじゃない? ひとりよりふたりの方が」
「そうかもしれませんけれど」
「それとも、友達を家には呼びたくない? 実はびっくりするほど汚部屋とか」
「人を招くことのできないような状態にはしていませんよ」
風夏の冗談にまじめな顔で答えたつづみは、ふと首をかしげる。
「わたしの家に来ることが前提なんですか?」
「うち、駅西でちょっと遠いもの。つづみさんの家、学院のすぐそばでしょう?」
互いの家の場所は、4月に出会った頃に教えあったことがある。けれど、それ以来、つづみは風夏を家に誘ったりしてくれたことは一度もなかった。
そしていまも、つづみはわずかに斜め下を見て、風夏の顔をまともに見ないようにしている。
神の前で悖ることをしない、堂々たる芳野つづみが、そんな後ろめたそうな表情を見せるのはめずらしかった。
彼女が、自分の家のことを恥じるなんて、そんなはずはないのだけれど。
何しろ、両親の教育によって、こうも敬虔な信仰を身につけたのだから。
風夏は手の中で、一度、くるりとシャープを回転させた。中指の関節の上で、細長くて硬質なシャープが、かろやかに輪を描く。
「それ」
「え?」
「その回すのが、わたし、できないんですよ」
「これですか?」
もう一度、風夏は同じことをしてみせる。つづみは、なんだかマジックでも見た子どものように、目を輝かせた。
「どうやるんですか?」
「いや、あらためて説明を求められても……それこそ、慣れだよ、慣れ」
やってみれば、と、風夏はペンケースから余ったシャープを取り出して、つづみに渡す。おもちゃメーカー製の微妙にゆるいキャラが描かれたシャープを手にして、つづみは、それを人差し指と中指と薬指の間で、ゆらゆらともてあそぶ。
人差し指にぶつかったシャープは、床に転げ落ちた。
「すみません……」
「大丈夫」
「まだわたしには尚早でした」
あっさり諦め、つづみはシャープを風夏の机に戻した。がっくり肩を落としたその様子に、思わず、風夏は笑みをこぼす。
いつだってまっすぐ、揺るぎないように見えたつづみの背筋が、いまこの時だけ、夏の暑さに溶けたように曲がっていた。ひょっとしたら、8月になれば、彼女はどろどろに形がなくなってしまうのかもしれなかった。
そんな、ぐずぐずに崩れた芳野つづみを、風夏はすこし見てみたかった。
風夏の脳裏に夢想されるのは、自室でべったりとベッドに寝転がって、冷房を効かせた部屋でアイスをかじるつづみだ。ぼたぼたと溶けたアイスがシーツに染みを作るのもかまわず、ごろりとベッドの上に横たわる、つづみ。
案外、そういう人間くさい所を見られたくないのかもしれない、と、勝手に想像してしまう。
そんな隙がなければ、つづみはあんまり完璧すぎる。
「ありがと」
ノートを書写し終えて、風夏は、きちんと閉じたノートの表紙を上にして、つづみに両手でうやうやしく差し出した。
「ねえ、風夏さん。わたしのこと、すこしからかってません?」
「そんなことないよ」
くすくす笑いながら、風夏は言う。つづみは片方だけわずかに目を細め、眉尻をちょっと下げて、困り顔を作る。
「次の授業、寝たらダメですよ」
「子ども相手みたいなこと言わないでよ」
初等部の児童に先生や保護者が言うような、約束事だ。素直に聞くかどうかは別として、高等部の生徒が互いに確かめ合う事柄じゃない。
「……元気づけてくれたら、ちゃんと起きてる」
そう言って、子どもみたいに頭を差し出す風夏に、つづみは苦笑だけで応じた。
「そういう軽口が叩けるなら、余裕ですね」
「ちぇ」
もう一度触れてもらえたら、と思ったのだけれど。
それこそ子どもじみた願いかもしれなかった。




