第70話「モナリザやヴィーナス見て、それが浮気だって怒る恋人なんている?」
佐藤希玖の主催する勉強会に集まる面々はだいたい同じだが、日によっては、意外で微妙な組み合わせが成り立つこともある。
そのおかげで、ドロシー・アンダーソンは、前々から気になっていたことを直に、棗沙智に質問する機会を得た。
「ぶっちゃけた話さ、沙智さんと愛さんはつきあってるの?」
新鮮な輝きのオレンジジュースを、保存用のガラス瓶からコップに注ぎながら、ドロシーは沙智に問いかけた。
沙智は、お盆にコップを載せた手を止め、まじまじとドロシーを見つめる。ガラスのコップに浮いた水滴が、沙智の人差し指の上で、にじむように消えていく。
「……ほんとに直球。それ、まともに訊いてきたの、ドロシーさんが初めてだよ」
ふたりが立っているのは、ドロシーの家のキッチンだ。彼女の両親は両方とも働きに出ていて、キッチンを管理するのはドロシーの祖母だった。孫の成長に伴い、家の他の部分には立ち入らなくなっている彼女も、キッチンだけは最後の所領だとばかりに統率している。棚に並んだ食器も、水回りも、冷蔵庫の中身も、あたかもモデルルームのような美しさを保っていた。
ドロシーが手にしたオレンジジュースも、祖母が毎朝搾っているものだ。友達を家に呼んで試験勉強をするという話をしたら、祖母は喜んで、いつもよりずっとたくさんのオレンジをミキサーにかけてくれた。
その祖母もいまは散歩に出ていて、この家にいるのはドロシーと沙智を含めて4人。希玖と小田切愛は、2階のドロシーの部屋で数学の問題に頭を悩ませている。
頭を使いすぎて糖分を欲した一同のために、ドロシーがジュースのお代わりを取りに行くことを申し出たところ、沙智が手伝いを志願した。
いっしょに階下におりてきたのを、ドロシーは好機だと思った。
下世話でなかなか人前では訊けないことを、きちんと問いただす、絶好のタイミング。
そして、沙智はドロシーの問いに、素直に答えた。
「うん。つきあってる」
そうか、と、ドロシーは納得してうなずいた。傾けていたガラス瓶を戻して、きちんと蓋をする。4人分のコップを、ふたつずつトレイに分けて、左右対称になるように配置した。
「どうして内緒にしてるの?」
「訊かれないから」
沙智はトレイの脇で手をぶらぶらとさせたまま、ドロシーのほうを見つめる。
「いまみたいに質問されたら、ちゃんと答えるよ。わざわざ自分たちから公にする話でもないじゃない」
「それにしては、クラスでもそんなにベタベタしてないようだけど」
「恥ずかしいでしょ、イチャイチャしてたら」
「……そうだけどさ」
悪ぶれもせず言う沙智に、ドロシーは思わず半眼を向けてしまう。
「愛さんと沙智さん、最初からつき合ってるような雰囲気出していたじゃないの。それをいまさら」
「あれは……愛さんのせいだよ。あの子、いっつも顔が近いから」
沙智はちょっと顔を赤らめた。額に指の腹を4本揃って当てて、かるくため息をつくその仕草には、懊悩のような、照れのような、微妙な感情が見え隠れする。
「てか、むしろ最近はちょっと距離取ってるつもりなんだけど」
「それが逆に気になるの。近づくにせよ、離れるにせよ、急に距離感が変わったら違和感が出るでしょう」
「……わかる。わかるけども。でも、だからって何も変わらないってわけにいかないもん」
トレイの脇に手を置き、苦虫を噛んだように渋い顔を伏せた沙智の仕草に、う、と、ドロシーは胸を突かれた。
「ごめん、責めるみたいになっちゃった」
「いや、こっちも……ちょい、深刻に捉えすぎた」
ぐりぐりっ、と、沙智はテーブルクロスを乱暴にこする。その手をテーブルの上に置いたまま、彼女はわずかに顔をもたげ、上目遣いにドロシーのほうを見つめる。
「ドロシーさんとまともに向き合うの、けっこうプレッシャー感じるんだよね」
「そ、そうかしら?」
ドロシーは、思わず半歩退いてしまう。自分の口調が多少きつめな響きを持っているのは、自覚していなかったわけではない。でも、こうして真っ向から指摘されたのは初めてだった。
「プレッシャーは言いすぎかもしんないけど、まともに見つめられると、こう、ねえ。ドロシーさん、美人だし、目線鋭いしさ」
「それは自分ではどうにもならないよ。というか、同級生に美人とか言う? 恋人いるのに」
「いいの。かわいい女の子を観察するのは、恋愛とは別の趣味だから」
「……堂々としていてじつに清々しいわね」
なかばあきれて、ドロシーは首を振る。小田切愛と棗沙智が、教室の窓際からクラスメートをよく見ているのは、彼女も知っていた。
「他の女子に目移りして、愛さんは怒らないの?」
「美術館にデート行って、モナリザやヴィーナス見て、それが浮気だって怒る恋人なんている?」
愛や沙智にとって、他の生徒は絵画の中にいるみたいなものなのだろうか。それはそれで、いくぶん寂しい話だ。
「相手は生身の人間よ」
「それはもちろん。それは、なんて言うのかな……気の持ちよう。友達だし、観察対象だけど、恋人にはならない。愛さんは、前は友達だったけど、いまは恋人。水の上で浮きが動くみたいに、その場所は日々移り変わる」
沙智は、テーブルの上のコップにかるく触れた。オレンジジュースが波打ち、水面の上できらめきが点滅する。
「ドロシーさんの書道みたいに、かっちりとしてるものばかりじゃないの」
「……よく、わからないわ」
佇む沙智の微笑みが、つかのま、変に遠く見えた。この部屋の空間までが、彼女の言葉みたいに、ゆらゆらと波打っているのかもしれない、と思える。
気を取り直すために、かるくドロシーはかぶりを振った。
「あんまり待たすと、おきくたちが心配するかも。ジュースもぬるくなっちゃうし」
「そうね」
ふたりはジュースの載ったトレイを手に、キッチンを出る。ドロシーが前に立って歩き出すと、沙智がちいさく声を上げた。
「ドロシーさん、歩き方もすごいきれいだよね。ぜんぜん揺れない」
「揺れないって、何が」
「ジュース」
目配せしながら沙智は言う。確かに、ドロシーのトレイの上のジュースはほとんど波打っておらず、凪いだ海のように平静だった。一方で沙智のトレイのほうは台風のように波立って、いまにもこぼれそう。
その揺れによけいに焦りを助長されたみたいに、沙智の両手はますます左右に揺れ動く。
「おっと、と」
「慌てるから、よけいにパニックになるのよ。すこし待って、気持ちを静めて」
「う、うん……」
ドロシーの忠告を聞き入れて、沙智はわずかに腰を落とし、深呼吸する。一度息を吸って、吐くごとに、コップの中の波はゆっくりと鎮まって、水面は落ち着きを取り戻していく。
波が完全になくなってから、ドロシーも歩き出した。意識して、背筋をぴんと整えて、腰のあたりまでまっすぐに線を通すように。
「姿勢いいなあ、ドロシーさん」
「まっすぐな姿勢は正確な挙措の基本よ」
「それ、やっぱり書道?」
「思い通りの一画を書くのに、体全部が必要になるの」
言いながら、ドロシーは階段を上る。人感センサーで照明がついて、ぱっ、とあたりが光に照らされた。
なんとなく、二階のほうを見上げれば、愛と希玖が喋っているのがかすかに聞こえる。
「逆に、おきくと愛さんって何喋るんだろう。想像つかない」
「希玖さんが愛さんを問いつめるイメージはないもんねえ」
「だから問いつめてなんてないじゃない」
「そういえばさ、ドロシーさんは、希玖さんとはつき合わないの?」
「はあ?」
がたん、と、手の中でジュースが揺れた。その様子を後ろから見つめる沙智の、かすかにほくそ笑む声。
「ドロシーさんもまだまだ鍛錬が足りないね」
「あなたがいきなり変なこと言うからでしょう」
「変だなんて失礼な。れっきとした恋バナですよ、女子高生の」
すました顔でそんなことを抜かすので、ドロシーは沙智を半眼で思い切りにらみつけた。ひい、と声を上げた沙智の手の中で、ジュースがひときわ大きく揺れた。




