第69話「肩が凝るみたいに、何となく、気持ちも痛くなるの」
「朝起きたときから、ちぐはぐだったのよね」
人気のなくなった放課後の教室、高良甘南は頬杖をついた姿勢のまま、床に放り捨てるようになげやりな声でつぶやいた。椅子に横座りして、右肘に頭ごと体重を預け、左手は所在なく膝の上に載せられている。スカートでなかったら、大げさに足を組んでやりたい気分だった。ぶらぶらと浮かせた右足と、左右に揺れるスリッパとが、甘南のふてくされた内心を露呈している。
向かいに座った梅宮美礼は、無言でタブレットの上にスタイラスを走らせている。素早く静かな筆捌きの合間に、とん、とん、とボタンを叩く音が混じる。甘南の側からは、画面は見えない。
することのない状態は、あまり苦にならない。他のバスケ部員のような、体を動かしてなければ落ち着かない、という焦燥感は、甘南には縁がなかった。だから、休憩時間や練習試合の待ち時間など、他の皆がうずうずしているような状況下でも、甘南はひとりぼんやりしていることも多い。
しかし、何もしていないからといって、何も考えていないわけではない。感情表現は豊かだし、気持ちの揺れも人より激しいくらいだと自分では思っている。
なので、じっとしているしかない状況というのは、むしろ苦手だった。体を動かす代わりに、甘南はしゃべり続ける。
「スマホのアラームが止まっちゃってて、危うく寝坊するとこだった。なんか、勝手に電源切れてて」
よけいなボタンを押したか、充電がうまくいっていなかったのだろうが、とにかく甘南の認識としては”勝手に”だ。
「そんで、起きてキッチン行ったら、お母さんが”レンジが壊れた”って騒ぐし。掃除のときにコンセント抜いちゃってたんだけど、それに気づかなくて。ひっくり返すわ、説明書探すわ、サポセンの電話番号調べるわで、10分ぐらいてんやわんやで」
美礼の手の動きにはためらいがない。話に耳を傾けている気配はなかった。甘南は、床のほうを見つめ、そちらにしゃべりかけているような気分で言葉を続ける。
「おかげで家出るのも遅れちゃうし。そのせいで、いつもは会わないような人に会うわけ。でっかい犬を散歩させてるおばあちゃんとか、自転車にいちいち文句つけるおじいちゃんとか」
犬はやたらに甘南に吠えかかってきて恐かったし、老人は誰もいなくなっても何かわめき続けていてもっと恐かった。世の中、理にかなった生き方をしている人ばかりではない。
「ようやく学校来たら、今度は授業で不意打ちで当てられるし。お弁当にはお箸が入ってないし」
ふう、と、耐えきれなくなったようにため息がこぼれ、甘南はとうとう右足をはしたなく振り上げて、脚を組んだ。
「ひとつ調子が狂うと、全部ばらばらになっちゃうよね。ジグソーパズルみたい」
「……こんなもんかな」
美礼は、ちいさくうなずいた。くるり、とタブレットを手の中でかろやかに反転させ、画面を甘南に見えるようにした。
「どう?」
「……わたし、こんなに顔色悪い?」
思わず、甘南はぼやいていた。
美礼の絵は、黒い線だけで描かれたデッサン風のものだ。たしかに達者で、輪郭も顔立ちも正確だし、甘南の表情をよくとらえている。かるく伏せた目のアンニュイさなど、さっとしたスケッチ風のタッチなのに、驚くくらい色気を感じさせた。
しかし、その顔色は、墓の中からよみがえったゾンビに真っ青だった。
美礼はくるりと、タブレットを元に戻した。
「気持ちが病んでた」
「……なんかひどいこと言われてない?」
「よくあること。肩が凝るみたいに、何となく、気持ちも痛くなるの」
淡々と紡がれる美礼の言葉には、奇妙な説得力があった。意味は分からないし、直感できるわけでもないのに、妙に腑に落ちる。
彼女はふたたび画面にスタイラスを落としながら、ぽつりとつぶやく。
「たぶん、明日はいい日だよ」
「似顔絵だけじゃなくて、予言もするの?」
テレビで流れる昔のドラマのように、街角に座って人をいざなう姿が、美礼には似合うような気がした。絵を描いて、占いをして、おまじないをしてお金をもらう。生活が成り立たなくても、ふしぎに生きている。そういう類の存在感が、美礼にはあった。
「そう思えば、自然と運が向くものよ」
「気の持ちよう、って話? 当てにならないな」
「気分がいいときは、いいことだけ見えるようになる」
逆もまた、と、美礼はもう一度、タブレットを裏返した。
その画面の上にいた甘南は、目を見張るほど、晴れやかな顔をしていた。
「すごい……いまの一瞬で描いたの?」
首を振って美礼は立ち上がり、甘南の机のそばまでやってくると、タブレットを机の上に置いた。
それから、彼女は矢印のアイコンを叩く。アンドゥ機能で、失われていた線がよみがえってきて、ふたたび甘南の顔に影が落ちていく。
あっという間に、画面上の甘南の顔は、さっきの暗い顔に戻っていた。
はあ、と、感心したような、絶句したような声が、甘南の口からこぼれ落ちた。
「ほっぺたに線を入れるだけで、まつげも、目尻も、顎の輪郭も、別の解釈になる」
美礼はあっさり言って、スタイラスをしまう。ちょん、と画面をつついて画像編集アプリを閉じると、素っ気ないホーム画面が現れる。元から入っているアプリ以外に、ほとんど何もインストールしていなさそうなそのタブレットを、美礼はいとおしそうに両手に収めた。
「……すごいね。なんだか、自由自在で」
甘南は、まだぽかんとして、つぶやいていた。美礼の両手の指を、じっと見つめる。その細い指は、甘南の思いも寄らないような繊細さで動いて、想像もできないような世界を描き出す。
しかし、美礼はちょっと肩をすくめる。
「最初に入れる線を間違えると、どうにもならないけど。最後には、その線のニュアンスに引っ張られちゃう」
「そういうもの?」
「それでも、やり直しがきくから、だいぶマシ」
美礼は振り返って、机の上に置きっぱなしにしていた鞄を手に取る。そのポケットにタブレットをしまいながら、彼女は言った。
「甘南さんのシュートの方が、よっぽどすごい」
「そう?」
「私には、ボールをゴールに入れる曲線を描く方法、ぜんぜんわからないもの」
一瞬だけ、美礼は目を細めた。黒く濃いまつげが、まるで三日月のように流麗な弧を描く。
そのラインを、甘南は、ずっと心にとどめておきたいように思った。けれど、その一瞬の表情はすぐにかき消えて、あとには夕闇迫る教室と、飄々としたいつもの美礼の無表情しか残されていない。
あの線を取り戻す術は、甘南の手中にはなかった。
「お互い、ないものねだりだね」
甘南はそう言って、組んでいた脚を下ろし、勢いよく立ち上がった。ふと時計に目をやれば、授業が終わってから2時間も経過している。
「悪いね、引き留めて」
美礼はめずらしく、殊勝に言った。
「平気。どうせ部活は試験休みだし、放課後は暇だから」
「それじゃあ」
「また明日」
美礼はそれ以上甘南を引き留めはしなかったし、甘南も美礼を誘ったりしなかった。試験の終わった後にでも、スイーツ巡りにつきあわせたかったけれど、なんだか、彼女がそんな提案に乗ってくるような気がしない。この夕暮れのことさえ、このままふたりとも忘れてしまいそうに、儚かった。
とはいえ、明日はまた訪れる。いつもと同じふたりになるか、そうでないふたりになるかは、きっと、そのときの甘南と美礼の気分次第だ。
美礼の背中を見送って、甘南はひとり、空中に透明なボールを投げた。




