第7話「2ミリぐらい宙に浮いているのでは」
由緒正しいミッション系の女子校である翠林女学院には、聖歌隊という名の部活動がある。その名の通り、全校集会や礼拝の際に聖歌を唄う役割を担う。他の部活にはないような、予算や活動に関する独立した権限を持ち、学院内でも独特の地位を保っている。
そんな聖歌隊の部員は、信仰に篤く物静かな淑女であり、初等部のころから一貫して聖歌隊に所属するものが大半だ。彼女たちは他の生徒から遊離した、浮き世離れした雰囲気を持ち、近寄りがたい集団と目されている。
とはいえ、まれに、例外的なものもいる。たとえば、外部から高等部に編入し、うっかり聖歌隊の独特な空気に魅了されてしまった生徒が、ひょっこりと聖歌隊に参加してしまうこともあるのだ。
大垣風夏も、そんな生徒だった。
礼拝堂の入り口から、聖歌隊の生徒たちがしずしずと外に出てくる。ひとり別メニューでレッスンを受けていた風夏は、人の流れの脇に控えて、深々と頭を下げる。神の前では均しく同じ人の子、とはいうものの、先輩たちに対する敬意を欠かしてはならない。中学時代は運動部に所属していた風夏には、そういう空気は慣れっこだった。先輩たちの幾人かは、風夏を一瞥してお辞儀を返してくれる。
そして、いちばん最後に出てきた一年生の集団から、ひとりの生徒が風夏に歩み寄った。
「お疲れさまです、風夏さん」
その一声で、風夏の疲れは吹き飛ぶ。
「お疲れさま、つづみさん!」
はしゃいだ声を隠しもせず、風夏は芳野つづみに笑いかける。つづみは大きな目でおだやかに風夏を見つめて、かすかにほおをゆるめた。どんなときもほとんど表情を変えない彼女のわずかな心の動きを、風夏はだんだん理解できるようになってきた気がしている。
「風夏さんの声、中まで聞こえてきましたよ」
「声量には自信あるから」
「まずは、それが大事ですよ。てらいなく声を出すのが、意外と難しいのです」
つづみは、同級生の誰に対しても丁寧語を使う。彼女のまっすぐな佇まいと柔らかな声音から発される言葉は、とても自然で、気取りや格好付けの気配はすこしもない。
こんな所作を身につけられたら、風夏もずっと丁寧語でしゃべってみたい。そう思うけれど、まだまだ先の話だ。
しずしずとつづみが歩きだし、風夏はその半歩後ろについていく。身長も、歩幅も、風夏の方が大きいから、自然にするとすぐにつづみを追い抜かしてしまいそうになるのだけど、風夏はあえて控えるようにしている。
つづみのすこし後ろにいるのが、風夏にとっては当たり前のことだった。
「歌詞はすこしは覚えられましたか?」
「何となく……シュワ、キマ……」
「主は来ませり、ですね」
「古文なの?」
「文語です。古文よりすこし新しいですね。明治時代あたりの言葉です」
「すこしじゃないよ、それ?」
風夏の大げさな突っ込みを受けても、つづみは平然としてほほえむばかり。ほとんど両肩を動かさない歩き方で、ゆったりとした歩幅を崩すこともなく、よく磨かれた革靴は、砂利道を踏んでも足音もほとんど立てない。きっちりと編み込まれた髪は、丸い頭を帽子のように覆って、背中に降りている毛先は芯でも入っているみたいに動かない。
2ミリぐらい宙に浮いているのでは、と、風夏は思わずつづみの足下を見つめてしまう。
「でも、今は分からなくても、きっと意は通じます。風夏さんなら大丈夫ですよ」
「……そうかな?」
「聖歌隊に入る、という意志を見せたのですから。その思いを忘れずにいれば、主は理解を授けてくださいます」
そう言って、自分の言葉に満足したように、つづみは風夏から目を離して正面に向き直る。
そんなふうに、つづみが”主”のことを口にするたび、風夏は胸に針で刺したような痛みを感じる。まるで、つづみが信仰のヴェールの向こうに自分の心を包み隠してしまうように感じられるから。
風夏が、まがいものの信仰で、つづみを騙しているのかもしれないから。
4月の初旬、風夏は所属する部活を決めかねていた。
小学校ではバレー、中学ではサッカーに取り組んでそこそこの成績を出したものの、どちらもそんなに熱意を持っていたわけではなかったし、高校でまで同じことをするつもりもなかった。
本命の公立に落ちて、翠林に滑り込んだ彼女には、周りに友達もおらず、他の誰かにくっついていく、という選択肢もなかった。実のところ、バレーもサッカーも友達に誘われての入部で、自分の意志だったとは言い難い。風夏の行動は、いつもそんなふうだった。
友達のいない場所では、何をしたらいいか分からない。
そんな風夏が、放課後に礼拝堂を訪れたのは、単なる気まぐれだった。それまでの学校にはなかった建物に、すこし好奇心を抱いただけ。
さして熱意もなく、懺悔する気もなく、礼拝堂の扉を押し開けた風夏の目に飛び込んできたのは、十字架の前に跪く少女の背中だった。
宗教のことなんて何も分からない。このあいだ初めて受けた宗教の授業だって、ちんぷんかんぷんだった。
お祈りも、お盆のお墓参りや法事の時に、見よう見まねでするだけだ。前にいる大人の真似をして、形だけ整えておけばいい、としか思っていなかった。
そんな風夏にとって、彼女の後ろ姿は、理解を超越したものだった。
目を見張るほど高い天井、美しいけれど冷たい側壁のステンドグラス、空っぽの礼拝席、音を立てることも拒むような張りつめた空気。
そして正面には、苦しそうでもあり、それなのに優しい、はかりがたい面差しを浮かべる、十字架上のイエス。
それらすべてに囲まれて、少女はいる。
触れさせてもくれないだろう。声をかけることさえ憚られる。
巨大なものと相対し、たったひとり、孤立する少女に、風夏ができることなど何もない。
彼女の後ろについていくことさえ、おこがましい。
ここにいるべきじゃない。
そう感じていたはずなのに、どうしても、その背中から目を離せなかった。
数秒とも、数日ともつかない時間が過ぎ、少女はゆったりと立ち上がり、振り向いた。
たぶん、風夏の存在にはずっと気づいていたのだと思う。その上で少女は、その夾雑物と、自らの信仰とを、同時に抱えこんだままに、そこにいたのだ。
「ごきげんよう」
世にも美しい所作で、彼女は頭を下げた。
その時にはもう、風夏の心は決まっていた。
何をすればいいのか分からないけれど、ただ、少女についていく。
同じ1年撫子組であることを知り、つづみが聖歌隊に属していることを知って、風夏は自分も聖歌隊に入りたいと志願した。
つづみは、風夏の無謀な願いを拒まなかった。難色を示す担任教師を説得し、部活動担当のシスターと会談し、風夏のための特別メニューを組み立て、彼女を聖歌隊に迎え入れたのは、すべてつづみの手腕だった。
彼女がそうまでしてくれるのは、きっと、風夏を自分と同じだと思ってくれているからだ。風夏が、信仰に目覚めたのだと。
けれど、つづみの半歩後ろを行く風夏は、ただつづみの背中を見ているだけだ。
歩く人の後ろにいることはできても、何かと正面から向き合いたいわけではない。
あの恐ろしい、救世主が相手なら、なおのことだ。
「ねえ、風夏さん」
「はい?」
つづみの屈託のない視線に、風夏は心臓が止まりそうになる。
聖書のこと、信仰のこと、罪とか罰とかそういう類のこと。
それを問われたら、どう答えればいいか分からないし、どう答えてもつづみを怒らせてしまいそうな気がしてならない。
あの真摯さ、強さが、風夏をへし折ってしまうのではないか、と思って、恐ろしくなる。
公立の受験に失敗したときだって、そんな挫折は感じなかった。
だけど、いま、つづみに嫌われるのが、何より怖い。
真っ白いほおを、やわらかく笑ませて、つづみは、聖歌を唄うのとはまるで違うあどけない声で、風夏に言う。
「帰りにすこし、寄り道していきませんか? 新しい筆記具を買おうと思って」
「……もちろん! かわいいシャーペンのある店、知ってますよ」
「いいですね。そういうの、私は疎いもので。教えてくれますか?」
「はい!」
笑う風夏の胸には、すがすがしい喜びだけがある。
それに満たされている間は、きっと、大丈夫だ。
強く砂利を踏みしめた風夏の足下で、小石が跳ねる音がする。駆け出したいような思いで、風夏はつづみと言葉を交わし続ける。