第67話「そういう衝動に取り憑かれてもおかしくない、ような」
梅雨の季節だった。昨日からそぼ降る雨は途切れることを知らず、しとしとと天地を濡らす。すっかり校庭を覆った水たまりの上を、音楽のように波紋が走り続けている。水はけが悪く、すこしの雨であっという間に水浸しになる、というのが、翠林女学院高等部の敷地に長らく残る欠点のひとつだった。
校門から校舎まで延びる道にも、そこかしこに水たまりが生じている。
「これ、明日も乾かないよね」
窓辺にたたずんで外を眺めながら、桜川律はひとりごとのようにこぼす。ほとんど曇りガラスのようになった窓をかるく指でこすると、指先にどろりとした湿気がまといついた。
「また登下校が億劫になります」
そばにいた香西恋が、沈んだ声で応じる。1年撫子組でも最も柔和で物に動じない恋だが、この時期の気候はひどく苦手なようだった。いつも穏やかな笑みを形作る細い目も、今日はすっかり落ち込んだ様子で、眉尻が雨に負けた木の葉のように垂れ下がっている。
「ちゃんと備えがあれば、雨も嫌いじゃないんだけど」
「暑苦しくないですか? レインコートも長靴も、べたべたして、私は苦手ですね」
「でも、完全装備で豪雨の中にいるのって割とテンション上がるよ」
「それは、イベントごとならいいでしょうけれど……」
恋はあきれたようにいいながら、ふと、律からすこし目をそらして、雨模様を見やった。
「初等部のころは、たまにいましたね。雨の中に飛び出して、わざと濡れてくる子」
「あ」
ぽつり、律のつぶやいた声は、スイッチを切られたみたいに途切れた。彼女の頭に、古く茫洋とした景色が思い浮かぶ。その、白く煙るような曖昧さは、ひとつには記憶の遠さのせいでもあるし、もうひとつは、あの日の大粒の雨があまりにひどく降り続いて、世界がまるで幕に閉ざされたみたいで、視界がぼんやりと遮られていたせいでもあった。
そんな、おぼろげなイメージの中に、やけにくっきりと浮かぶ姿があった。
それは、水の上を回転するコマのようでもあった。それは、長く黒い髪を振り乱し、黄色いレインコートをはためかせて、くるくると踊っていた。
「どうかしました?」
「……思い出したの」
律は、寄りかかっていた窓から身を離し、立ち上がった。恋の前の席、三津間百合亜のいない椅子の背の所に、行儀悪く腰を乗せ、恋と向き合う。
そして、ひそめた声で、律はつぶやいた。
「あれ、薫子さんだった」
8年前、初等部の3年生のとき。梅雨の季節よりはすこし後、夏の盛りの午後だった。朝からかんかん照りだった空がにわかにかき曇り、空気に雨の匂いが混じり始めたかと思ったとたん、激しい夕立が襲った。
律は、突然の雨の音に驚いて、窓の外を見た。算数の授業の最中で、先生の歯切れの悪い喋り方を、やけに鮮明に覚えている。
バケツをひっくり返したような雨に混じって、遠い雷鳴が轟いた。幾人かの生徒が悲鳴を上げた。律も、おなかの底がきゅっと縮んで、胸が冷えるのを感じた。この雨の中を帰るのは、とてもおそろしい、と思い、半ば恐いもの見たさで窓の外をのぞき込むように見下ろした。
雨はまたたくまに、初等部の校庭を黒く湿らせていた。幾筋か、葉脈のような小川ができて、汚れた水が流れていた。
そのなかに、ひとりの生徒が飛び出してきた。
彼女は、黒髪を振り乱して、くるくると回っていた。その様子は、何かに取り憑かれたかのようだった。制服がずぶ濡れになるのも、革靴が泥まみれになるのもかまわず、雨の中を踊り狂う様は、何かに操られているみたいだった。
ぞっとしながら、しかし、律は目を離せなかった。
水たまりの上を滑るように走り、つま先立ちでくるりと回転し、ときおり空を仰ぐ。白いおでこに雨が落ちて、眉毛も睫毛も唇も濡れそぼち、それでも彼女は、踊ることをやめなかった。
それは、たまらなく、高貴な姿だった。
自然の猛威にも屈せず、ただ、感情をむき出しにしたその姿は、律の脳裏に、崇高なものとして刻まれたのだった。
先生が駆けつけて、彼女を教室に引き戻すまで、ひょっとしたら1分もなかったかもしれない。
けれど、その記憶はまるで永遠に似て、律の中に刻まれたのだった。
「それが、薫子さんだった、と?」
律の思い出話を聞き終えた恋が、小首をかしげた。彼女の泰然とした仕草からは、感情がうかがえないことがある。全部、律の夢か何かだ、とさえ思っていそうだった。
「ほんとだからね?」
「嘘だなどとは言っていませんけれど……」
「ならいいけど」
「しかし、ほんとうだとしても、なんだか夢幻のような話ですね。薫子さんのイメージとは違う気もしますし」
「でも、まだ初等部のころだし、そういう衝動に取り憑かれてもおかしくない、ような」
つぶやきながら、律はちらりと、薫子の方に目をやる。彼女は美礼の机のそばにいて、彼女の落書きを興味津々の様子で見つめている。
当時のことを訊いてみるつもりにはなれなかった。なんとなく、薫子自身も覚えていないだろうと思った。あのときの薫子は、そういう、忘我の境に達しているような鬼気を感じさせたから。
それに、記憶を言葉で改編したくもなかった。
「たぶん、忘れてること、うろ覚えのこと、たくさんあるんだろうな」
「私と律さんも、昔どこかで会っているかもしれませんね」
同じクラスになっていなくても、ずっといっしょの学校にいたのだから、どこかですれ違ったことはあるだろう。覚えていない会話、忘れている接触、それがめぐり巡って、この瞬間に結実したのかもしれない。
「初めて会った感じはなかったんだよね、最初っから」
「自然に話しかけてこられましたよね、律さん」
「やっぱり、何かあったのかなあ? 親近感を持たせてくれる何か」
「……思い出したら、また聞かせてくださいな。そういうお話、わりと好物なのです」
ふんわりとした微笑で、恋はそう言った。降り続く雨はまだやまず、雨音はそれから長いこと、撫子組の教室をずっと閉ざすみたいに鳴り響き続けていた。




