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第61話「字ばっかりの本なんて得体が知れないものでしょ」

 ドロシー・アンダーソンの隣の座席に、小学生ぐらいの男の子が不意に侵入してきた。

 彼の態度には、座る、という言葉はそぐわなかった。靴を脱がないまま、シートのクッションに膝からよじ登り、背もたれに右手をかけ、左手で手すりを鷲掴みにする。そして、坊主頭の下のくりくりした目が、ドロシーをぶしつけに凝視していた。

 それはもう、侵入とか、侵略とか、そういう表現のふさわしい行動だった。


 北に向かう、路線バスの中だった。今は入り組んだ路地を走っているそのバスは、そのうち山を越える広い街道に出る。今日のドロシーの目的地は山の向こうで、長い旅路になることは明らかだった。だからドロシーは、布のカバーをつけた文庫本を広げて、長時間のバス移動をやり過ごすつもりでいた。

 しかし、3ページも読み進まない間に、子どもの無遠慮な視線が、彼女の行動を妨げたのだった。


 とはいえ、そんなことで気分を害するほど、ドロシーも幼くはない。


「どうしたの?」


 首をかしげて、ドロシーは子どもに訊ねた。男の子の顔は、丸い鼻と、赤い唇が印象的だった。まっすぐな目は、ドロシーの顔や髪の毛ではなく、その手の中の本を見つめている。

 ドロシーは、彼にその内容を見せてみた。


「読んでみる?」


 男の子は、きょとんと、紙面の中の文字列に目を奪われていた。おそらくは、ひらがなくらいしか読めないだろう彼にとって、紙を埋め尽くす日本語は、縦に読むのか横に読むのかも分からないだろう。それを証するように、彼の目は、じっと固まったまま動かない。


「まあまあ、何してるのアッちゃん」


 と、そこに、若い女性が駆けつけ、男の子を抱き上げて椅子から引きずり下ろした。女性は一瞬、ドロシーの顔を見つめて、すぐに頭を下げる。


「すみません、ご迷惑ではありませんでした?」

「いえ。元気なお子さんですね」

「そんな、ワンパクなばかりで……」


 女性はもう一度頭を下げる。バスが停車し、男の子は母親に連れられて行った。ドロシーが胸元でちょっと手を振ると、男の子はそれに数倍する元気な手振りで応じた。


 バスが走り出す。ドロシーが改めて本を広げようとすると、次の客が顔を出した。


「ごきげんよう。モテモテだね」

「もうちょっと年上の方が好みだわ。ごきげんよう、(つぐみ)さん」

「隣、いい?」

「ちょうど空席になったとこ」


 津島(つしま)鶫が、音も立てずに腰を下ろす。涼しげな夏の装いをして、ショルダーバッグをひっかけた彼女は、学院で見るよりもいっそう身軽そうだった。

 ドロシーは文庫本を閉じて、膝の上に置く。その手元をみた鶫は、ふと首をかしげた。


「何読んでたの?」

「さっきの男の子が出てくる本」

「え?」

「正確には、さっきの男の子と同じくらいの年頃の子が出てくる本」


 ドロシーの冗談に、鶫はまったく笑わなかった。とっくに走り出しているバスの降り口を見やり、肩をすくめる。


「にしても、なかなか怖いもの知らずな子だね」

「何が言いたいの」

「あんまり美人だと男が寄りつかないってこと」


 鶫の言葉は冗談にしか聞こえないから、ドロシーも笑わない。


「あたしより、本に興味津々だった。マンガだとでも思ったんじゃない?」


 ドロシーはブックカバーの表面を鶫の方に向ける。無名のキャラクターが描かれたカラフルなそれは、コミックの表紙に見えなくもない。


「中身見せたら呆然としてたしね……悪いことしちゃったかな」


 ドロシーは一瞬、流れていく景色に目をやる。内科医院の宣伝が書かれた看板、政治家のポスター、瀟洒な店構えの宝石店、それからまた看板、種々雑多な文字列は、こちらに訴えかけるようなパワーもなく、ただ漫然と通り過ぎて行くばかりだ。


「年端も行かない子どもにしたら、字ばっかりの本なんて得体が知れないものでしょ。いきなりそんなの見せられて、怖かったかな、とか」

「怖いってことないでしょ」

「そう? 近寄りがたい美人に正体不明のもの見せつけられるのって、ちょっと都市伝説っぽくない?」

「お、いいね。妖怪本見せババア」

「年齢がいきなり爆上げしてるんだけど?」


 さすがに今度はおかしくて、ふたりでくすくす笑う。


「たぶん明日には、小学校で噂になってるな、ドロシーさんのこと」

「道で会ったら石でも投げられそう」

「そしたら本を見せて追い払うんだよ。今度はハードカバーでも持ち歩けば? 防御力高いし」

「盾扱いだし」


 苦笑するドロシーの横で、鶫は不意に、胸ポケットからちいさな手帳を取り出して、そこに何か書き付け始めた。シャープの軸には微妙にキッチュな謎のキャラクターが描かれて、ドロシーはすこし興味を惹かれた。


「何書いてるの?」

「今の話。歌詞のネタになるかなって」

「……コミックソングにしかならなそうな気がする」

「いやいや、オリジナルの妖怪とかけっこう歌われるよ、インディーズのバンドなんかが」


 鶫の言葉の真贋は分からない。ただ、思いつきで喋った妖怪の話が、ほとんど客のいないライブハウスで歌われる情景というのは、ドロシーにもすこし興味深く思えた。歌を聴いた人から噂が広まり、ほんとうに都市伝説になったら、いつか本物の妖怪に進化するかもしれない。

 そうやって実体を持ったモノが、この街の片隅にも潜んでいるのかもしれない。

 子どもじみた想像に、ドロシーの心が、つかのま躍る。


「……そういえば、あの歌、どうなったの?」

「あの? ああ、ドロシーさんの?」


 以前に鶫が、ドロシーからインスピレーションを得て作詞作曲したという楽曲「ドロシー」。

 曲は出来上がったらしいが、結局、どこかで演奏したという話は聞かない。


「まあ、そのうち。たぶん文化祭ではやるから」

「他にステージに立つ予定はないの?」

「その辺は先輩の気分次第だね。あんまりやる気ないからわかんないけど……思いつきでどっかに乱入したりとか、可能性はある」

「……それは、ロック、とか、パンク、とか呼べばいいわけ?」

「そんなに大げさに呼んだらびっくりしちゃうよ、先輩がた」


 のどの奥で低く笑って、鶫は一瞬、バスの料金表があるあたりを見やった。その焦点はずっと、遠くを向いている。


「あの人たちは、自分たちの楽しいようにやってるだけ。私はそのおつきあい」


「……そう」


 高等部の部活動が始まって、まだ2ヶ月だ。

 作曲まで任され、隅にも置けない扱いをされている鶫だが、部活の中での彼女の立場は案外、あやふやなところにいるのかもしれない。

 子どものように、ぶしつけに飛び込んでいくべきか。それとも、大人ぶって距離を取るべきか。


 奔放そうな彼女だけれど、だからこそ、足下は意外と不安定なのかもしれなかった。


 視線を上に向けたまま、鶫は、倒れ込むように椅子の背もたれに身を預ける。


「ところで、ドロシーさんはどこ行くの? やっぱイベント?」

「イベント……と、言うのかしら。展覧会」

「ああ、書道部だっけ?」

「そう。先生の先生の弟弟子という方が、講演をするらしくて。興味があれば、ってチケットをもらったの。で、鶫さんのイベントって?」

「あー、クラブよクラブ。先輩の友達の音楽仲間ってのがDJするんだって」

「それ、高校生が行っていいの?」

「昼イベだし平気、お酒も未成年には売らない、っていう体裁だし」

「体裁とか自分で言ってたらアウトでしょう」


 そうこうするうち、窓の外を通過する景色は、次第に緑が濃くなって、上り坂にさしかかっていく。まだ昼前だというのに、山は小暗く陰っている。下生えの奥で、ふと、見たこともない何かがうごめいたような気がした。


「これ、ほんとに妖怪出そうね」

「お、何かいる……あれは!」


 鶫の鋭く抑えた声に、一瞬、ドロシーの背筋に冷たいものが走る。


「な、何?」

「……千鳥(ちどり)さん」

「いそうだけど! 確かにいそうだけど!」


 失礼かつふざけた鶫の言葉に、思わず、ドロシーは彼女のわき腹を何度もぶっ叩いた。それから念のために木々の奥へと目をやったが、もちろん、初野(はつの)千鳥はそこにはいない。


「ったく、クラスメイトを化け物扱いなんて、後で言いつけてやろ」

「ドロシーさんも、いそうとか言ってたじゃない」

「……そうね、同罪だわ」


 目を見交わして、ふたりは秘密の笑いをこぼす。


「千鳥さんも、いっぺん歌にしたいなあ」

「そのうちクラス全員分の歌、できるんじゃない?」

「撫子組は個性派ばっかりだからね」

「自分を棚に上げてよく言う」


 いっそう緑の深くなる景色を、ドロシーと鶫は、笑いながら通り過ぎていく。ドロシーは、肩をすくめて、本をカバンの中に片づけた。

 どうやら、この旅路に、物語のお供は必要なさそうだった。

このふたりの話も久々ですね。

シャーペンに描かれたキッチュな謎キャラクターは、15話に出てきたあいつ。

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