第60話「ふつうのことをどうしても知りたい、ってときもあるじゃない?」
「16:30」という数字は、今日1日中、佐藤希玖の頭の中を駆け巡っていた。登校して、いつも朝の早い弥生や千鳥やつづみに挨拶をしてから、6時限目の現代文の先生の脱線トークがチャイムによって遮られるまで、ずっと。
そうして、帰りのホームルームが始まるまでの、ほんのわずかなインターバル。希玖はもう、いつでも席を立てるように、全部の教科書とノートをカバンに詰め込んでいた。うずうずと体を前後させ、今にも走り出してしまいそうな様子だった。
「そわそわしてるね」
ふいに話しかけられて、希玖はぎょっとして振り返る。
希玖の席のさらに後ろには、選択授業で書道を取った生徒たちの作品が掲示されている。ずらりと並んだ”天衣無縫”の下に、桂城恵理早がしゃがみ込んで、希玖を見上げていた。
「……恵理早さん、そんなところで何してるの」
希玖が訊ねると、恵理早は同じ姿勢のまま、首だけかるく横に傾けた。ヘアバンドでまとめた髪が、ふんわりと揺れる。彼女の髪の揺蕩うのを見ると、一瞬、平衡感覚が危うくなるような錯覚を感じる。
「気になったから、見てたの。希玖さんのこと。なんか早く帰りたそうだし」
「そういう日、誰にだってあるでしょ。そんなに珍しい?」
「ふつうかもね。でも、ふつうのことをどうしても知りたい、ってときもあるじゃない?」
恵理早の言うことはどことなくちぐはぐで、希玖にはぴんとこない。けれどとりあえず確かなのは、希玖が急いでいる理由を知りたい、という彼女の願望だ。
希玖はひとまず、椅子に腰を落ち着けた。どのみち、ホームルームが終わるまでは勝手に帰るつもりもない。しかるべき時間にならなければ、望みのものは手には入らないからだ。
「ほんとにたいしたことじゃないの」
そう前置きして、希玖は告げた。
「ただ、今日の夕食の材料を買って帰る、っていうだけ」
「それがそんなに大切なこと?」
「うちの近所に、すごくおいしいベーカリーがあるの。今夜の主食は、そこのバゲット」
希玖は、店の名前と場所を説明した。
「ご存じ?」
「知らない。希玖さんの家って、たぶん私と逆の方だよね」
「ああ、恵理早さん函坂だもんね」
函坂の高級住宅街は、学院から西側にある。希玖の家のある住宅街とは真反対だ。希玖の生活圏に恵理早が触れたことがなくても仕方がないだろう。
「ともかく、今日はそこのベーカリーに寄っていくの。バゲットの焼き上がりが4時半だから、ホームルームが終わってすぐに出れば、ちょうど出来上がるくらい。朝に予約して、取っておいてもらってるの」
「それなら、別に急ぐ理由はなくない?」
「ちょうどの時間に、手に入れたいの。分かる?」
「でも、ホームルームの前から焦るのは、ちょっと早すぎでは」
「気分よ、気分。一秒でも、時間が早く過ぎればいいな、って」
「うずうずしてるのね」
「そう、それ」
こくん、と希玖は強くうなずいた。
「バゲットのついでに、お駄賃でいろいろ買ってくつもり。シンプルなあんパンとか、大きな肉の入ったカレーパンもいいけど。ラムレーズンを挟んだのがあって、これがまた……」
頬に手を当てて、希玖は帰り道を夢想する。バゲットの袋を小脇に抱え、余分に買った菓子パンを、ちょっとだけつまみ食いしながら歩く自分の様子。翠林の生徒が買い食いなんてはしたない、と怒られたりもするけれど、彼女は、そういうすれすれの時間も好きだった。ちょっとした背徳感を抱きながら、焼きたてのパンを味わう時間は、希玖のたいせつな宝物だ。
「そんなにおいしいの? バゲット」
「最高。子どもの頃からずっと利用してるけど、ちっとも飽きないわ」
「ふうん」
希玖が力を込めて主張するのに、恵理早はそこまで熱を感じていないようで、ぼんやりと希玖の顔を見つめているだけ。ほっぺたを指でひっかくそぶりにも、力がない。今にも話を打ち切って、席に戻っていってしまいそうだ。
隔靴掻痒の思いだ。説明してあげたいけれど、どこから話せばいいのか分からなくて、希玖はつい苛立ってしまう。
だから、ともかく希玖は、思いつくままに言葉にすることにした。
「何も付けなくても、そのままでおいしいの。外はカリカリに焼けてて、中の生地はふわっとやわらかくて、口の中で卵が割れるみたいな感じ。歯ごたえはあるから、ちっちゃな頃はちょっと噛むのに手間取ったけど、そのぶん、味は格別だったわ」
あのバゲットのことなら、いくらでも思い出せる。彼女の記憶といつも結びついているその味は、追憶をたどる赤い糸のようだった。
「家だと、よくシチューに漬けて食べるの。シチューの味がパン生地に染みて、やわらかくなって、とろっと口で溶けるの。フォンデュなんかもいいよね。ちっちゃな頃はチーズフォンデュがお気に入りで、パンだけじゃなくって、マシュマロとか、いろいろ」
言葉にしていくだけで、舌の上に味がよみがえってくる。
「サンドイッチにして、外に持って行くのもよかったわね。スモークサーモンの塩味とよく合うのよ。山にのぼったときに、てっぺんの小屋で両親と並んで食べたっけ」
「そういえば、千鳥さんがたまに、バゲット持ってうろうろしてるよね。山のあたり」
ふいに恵理早が口を挟んだ。希玖自身の記憶に、恵理早の言葉のイメージが混じり合う。けれどそれは意外によく馴染んで、淡い色の記憶の景色に別の点描を添えた。希玖は、ちいさく笑う。
「千鳥さんらしいね。パンの方が持ち運びやすいのかな?」
「お昼はおにぎり食べてる方が多い気がする」
「……よく見てるね、恵理早さん」
あんまりクラスに関心のなさそうな恵理早だが、好きなことには一心に熱中するような側面もある。生物部ではいちばん熱心に実験しているという噂も聞くし、授業も、寝ているときもあれば、誰より真面目に向き合っているときもある。
彼女の行動原理は、いまひとつつかめない。たぶん、彼女自身以外には。
「あ、ホームルーム始まる」
時計を見上げた恵理早は、今までの会話をすっかり忘れ去ったみたいな切り替えの早さで、すっくと立ち上がった。
あ、と、希玖はつい、残念そうに彼女の顔を見上げる。しゃがんだ姿勢から、しなやかに身を起こした恵理早のたたずまいは、一瞬で見違えるように変わっていた。ゆったりとしつつ、奇妙に素早い彼女の挙動は、つかのまめまいさえ感じさせる緩急があった。
「恵理早さん。その店、いつも朝から開いてるの」
「……うん」
ゆるり、と髪を揺らしながら、恵理早が立ち止まって振り返る。
希玖は彼女の後ろ髪を引き留めるみたいに、言った。
「恵理早さん、いつも、あんまりお昼食べてないよね」
「あまり入らないから」
「今度、買ってくるよ、あそこのラムレーズン。おいしいから、きっとたくさん食べれる」
一瞬、恵理早はまばたきした。肩まで垂れたふわふわの髪をちょっといじって、上の空、という感じで視線を天井の方にとばす。何かよけいなことを言ったろうか、と、希玖は一瞬、不安になる。突発的によけいなお節介をして、人の気持ちを傷つけてしまったりは、もうしたくない。
チャイムが鳴る。
恵理早は歩き出しかけて、右足を浮かせたまま、希玖の方を見つめた。
今にも、空中を歩き出しでもしそうな浮き世離れした仕草。
そして、恵理早はにんまり微笑んだ。
「それ、わくわくする」




