第58話「こうして記憶が薄れてみると、もったいないな、って思うよね」
「あんた、るなさんに変なこと吹き込んだでしょ?」
昼休み、並んでトイレの洗面所で手を洗いながら、内藤叶音は新城芙美に半眼を向けた。
鏡の中で、左右逆になった芙美の顔が、微妙な笑みを形作っている。
「変な、ってことないよ。ただちょっと、昔の話しただけ」
「昔っても程があるでしょ。幼稚園のときなんてさ」
「でも、るなさんも面白がってたみたいだし」
「それがなおさらヤなんだって」
しゃあしゃあとした芙美の言い草に、叶音は低い声で愚痴る。鏡の中の自分の顔が、たいそう不細工に見えて、よけいに気分が悪い。ハンカチで乱暴に両手を拭き、芙美の後ろを通ってトイレを出る。
芙美は、だいぶ遅れてあとからついてきた。さっきまでの微笑はすっかり消えて、普段通りの、内気で困惑気味の芙美がそこにいる。
「どうしたの、叶音さん、怒った?」
「そうじゃないけど、なんかハズい」
教室に戻るのが、いささか億劫だった。さっきのるなのにやにや笑いを思い出すと、自然と足取りが重くなる。歩調の鈍った叶音を、他の生徒が追い抜いていく。
「今さら5歳の時とか思い出すの、なんかモヤモヤするわ」
「まあ、あの頃とはぜんぜん変わっちゃったもんね、私たちも」
並びかけてきた芙美が、多少困惑した面持ちで叶音の横顔をのぞき込んでくる。
「ねえ、やっぱり怒ってない?」
不安げな声は、いつもの芙美のそれだ。叶音は、なぜかすこしほっとしたような心地で振り返る。
「怒ってはないっつの。心配しすぎ」
「ならいいけど」
「つか、ちょっとびっくりしたよ。るなさんとあんたが、そんな立ち入った話してるなんてさ」
「ああ……なんとなく、そんな空気で」
芙美の言葉は茫洋として、なんだか彼女自身、自分の気持ちがつかみ切れていないような感じだった。とっくに手を洗い終えたはずなのに、いつまでも汚れを気にするみたいに、両手をこすり合わせている。
叶音は、そんな芙美を見つめ返す。
「けど、そうやって突発的に何かやっちゃうところは、あんたっぽいよ」
「そうかな?」
「それこそ、幼稚園のころからあんま変わんない」
叶音の印象の中では、実のところ、芙美がそこまで変わったような感じはないのだった。
確かに、無鉄砲に突き進んで叶音をおいてけぼりにする、というようなことはもうない。後ろにいたはずの叶音がいつの間にか前に立つようになって、代わりに芙美は叶音の背中で縮こまっているようになった。
だけど、それはふたりの立場が入れ替わっただけ。
内側では、きっと芙美は昔の芙美のままだ。きっかけさえあれば、いつでも爆発して、どこまでも突っ走っていってしまう。
るなと親しくなるのも、そのきっかけのひとつ、なのかもしれない。
「るなさん、写真見てみたいっつってたよね……」
「何、家には押しかけられたくない?」
「ていうか、あの頃の写真、どこにやったかとか覚えてないんだけど」
「片付けてないの……?」
「いや、写真にあんまり興味なくて」
「ああ、そういうとこあるよね、叶音さん」
苦笑する芙美。彼女の方は物持ちがよく、たぶんアルバムもきちんと整理して部屋に収納しているはずだ。しばらく彼女の部屋を訪れてはいないが、中学の時には、きちんと写真屋で現像したきれいな写真をいっしょに眺めていた記憶もある。
「確か、温泉旅行に行った時のだったかな。前に見せてもらったよね」
「そうそう。家にぜんぜん自分の写真がないから、って言って」
叶音の写真を芙美の家で見せてもらうなんて、なんだかおかしな話だが、しかたない。
ちいさなころの叶音は、写真に撮られるのが好きではなかった。自分の顔が恥ずかしくて、それを記録されるのなんてほんとうにイヤで、だから家族旅行などでもカメラから逃げ回っていた。度が過ぎて、一度父親に叱られたこともあるくらいだ。
おかげで、叶音の写真は、自宅にもあまり残っていない。
「今さらだけどさ。こうして記憶が薄れてみると、もったいないな、って思うよね」
「どうしたの? 急に心境の変化?」
「……そっかな」
きっと、近衛薫子のせいだ。写真に凝っている薫子の充実した様子が、叶音から、かつての嫌悪感をぬぐい去ってしまったのかもしれない。
首をかしげた叶音を、芙美が、ちょっと笑う。
「たぶん叶音さんの方が、心変わりは早そう」
「何、人を浮気者みたいに」
芙美の失礼な表現に、叶音は唇をとがらす。くすくすと芙美は笑って、ふだんよりよけいに黒く濃く見える瞳で、じっと叶音の顔の真ん中を見つめてくる。
「だって、アニメでもマンガでも、いっつも飽きるのは叶音さんの方が先でしょ。ハマる時はどっぷりなくせに」
「ちょ」
「あ、今度は初等部の時の話しようかな?」
「やめろっつの!」
いたずらっぽく笑う芙美の頭を押さえつけ、叶音はうっかり大声で抗議してしまう。顔が赤くなり、頭の中にまで熱がこもっていくみたいだ。
女の子向けアニメに初等部ごろまで夢中になっていたのは、さすがに恥ずかしい記憶だ。
こんな記憶は流石に消し去りたいけれど、それは自分だけの問題じゃない。
「芙美の記憶もいっしょに消してやろうか……!」
ぐりぐりと芙美のこめかみに拳を押しつける。
「ちょ、痛い痛い、その辺にして!」
悲鳴を上げる芙美を見て、叶音は両手を離し、はあ、とため息ひとつ。
「……いや、マジで秘密だからね」
「分かってるよ。そこまで無神経じゃないから」
「頼むよ。友達の思い出って、意外と弱点なんだから」
叶音はぼやきつつ、そう考えると、自分はだいぶ芙美に弱みを握られているな、と思う。
古い友達なんて、そんなものかもしれない。




