第6話「高等部の猫は、気性が荒いね」
翠林女学院の高等部には窃盗犯が出る。
「待て待てぇー!」
淑女らしからぬ大声をあげながら、春名真鈴は盗人を追いかけていた。
いや、正確には人ではない。真鈴の鞄から引ったくったストラップをくわえて疾走するのは、白地に灰色のブチ猫だ。きらきら光る青い石をつけたゆるキャラのフィギュアが、猫の口の脇でぶらぶらと揺れている。
校門そばから校舎の脇を抜け、礼拝堂のほうへと、猫は一目散に駆けていく。真鈴も足の遅い方ではないが、軽快な猫は思いのほか俊敏で、なかなか追いつけない。一人と一匹の追跡劇を、下校途中の生徒たちはほほえましく見守るばかりで、誰も手を出そうとしなかった。
翠林の生徒たるもの、荒事に手を貸すようなことはしないのが嗜みなのかもしれない。そういう慎ましさは、今の真鈴には迷惑なだけだ。
「もうー!」
しんどくなってきた真鈴が天を仰いで嘆く。
と、礼拝堂のすぐ近くで、猫が急ブレーキをかけた。戦前からこの姿を保っているという、古めかしくも荘厳な門構えのそば。
門扉の横の壁に寄りかかるようにして、ひとりの少女がのんびりと腰を下ろしている。猫は、その少女のふくらはぎへとすり寄って、収穫を上納するみたいに顔を突き出した。少女はそれを認め、猫の頭をなでながら、キーチェーンを猫の口から受け取る。
その、盗賊集団の親分みたいな少女に、真鈴は声をかけた。
「百合亜さん!」
三津間百合亜がこちらを見た。どこか野生じみたぼさぼさの髪の奥で、眠たげな目がゆっくり動く。指にひっかけたキーチェーンをさしだし、首をひねる。
「これ、真鈴さんの?」
「そーそー。びっくりしたよ、いきなり現れたと思ったらあっという間」
百合亜に駆け寄った真鈴は、その手から盗品を取り戻し、ほっと一息つく。ストラップ本体は無事だったが、鞄にくくっていたヒモの部分はちぎれてしまっている。あとで修理しないと、と思いながら、真鈴はストラップをポケットにしまい込んだ。
「高等部の猫は、気性が荒いね」
「そういうもんなの?」
「そんな感じがする。中等部の子たちは、もっとのんびりしてて、登下校もいっしょに歩いてくれたり、かわいいものだったよ」
百合亜の口調は息継ぎが多い。おっとりと、体を左右にわずかに揺らすようにしながら、彼女はなつかしげな目で遠くを眺める。丸い頬に当たる夕陽が、彼女の顔をふんわり赤く染める。
「ちょっとちょっと、何をたそがれちゃってるの」
「ああ、ごめんなさい。つい、中等部のことを、思い出して」
「まだ過去を懐かしむ歳でもないっしょ。だいたい中等部なんてすぐ隣の敷地じゃない。会いに行けば?」
「ううん……でも、いちおう卒業したんだし、入りにくくない?」
「あー、まあ分かる」
真鈴はこくこくとうなずく。
「あたしも中学んとき、用事で小学校の先生に会いに行ったんだけどさ。何か違うんだよね、自分がいたときと。外も中もたいして変わってないはずなのに、余所者になったみたいで。買うものもない店に入っちゃった、みたいな場違いな感じ」
百合亜は、真鈴の言葉にちょっと首をかしげている。たとえがうまく通じなかったろうか、と、真鈴は言葉を付け足そうとするが、その前に百合亜がちいさくうなずいた。
「ああ、真鈴さんは、外部だったっけ」
「あ、うん、そう」
「中学って言い方、珍しいから」
当たり前みたいにそう言われて、真鈴はくすっと笑う。
「それ、すごく翠林っぽいよね。なんかいかにも、世間と違います、って感じ」
真鈴の言葉を聞いて、百合亜は、いつもぼんやりとしている半眼をはたと見開いて、じっと真鈴を見つめてくる。垂れた前髪の隙間から見えるまなざしは、正面にいる真鈴をぴったり捉えて離さない。
「……そうね」
つぶやいて、百合亜は忍びやかに笑いをこぼす。その笑いは意外と長く尾を引き、彼女はしばらくの間、背中を丸めて震えていた。夕刻の礼拝堂の、ひとけのない前庭に、細い笛のような笑い声がいつまでも響く。
百合亜の態度に、しばらくぽかんとしていた真鈴は、おずおずと問いかける。
「そんなにツボだった?」
あらためてこちらを見上げた百合亜の丸顔は、やわらかそうに笑っていた。
「だって、私、どちらかというと、翠林生らしくないって言われることが多かったから」
「あー」
言われてみれば、なんとなく腑に落ちるような気もする。翠林の生徒はどちらかといえば品行方正、しずしずと歩き、タイもプリーツも乱さない、というイメージがある。
そういう校内の空気からすると、どことなく自由でまつろわぬ雰囲気を持つ百合亜は、たしかに異端に見えるかもしれない。学校の片隅で猫に愛されている彼女は、むしろ旅人のようだ。
たそがれ始めた薄青い空に、細い雲がたなびいて、つかのま、吸い込まれそうになる。そろそろ空気が冷えだして、地面から発する熱のおかげでむしろ、足元の方があたたかく思われる。
まるで、赤ん坊や動物にまとわりつかれているようだった。
「ね、もうすこし、ここにいていい?」
「いいけれど、退屈じゃない? 真鈴さん、もっとにぎやかな所の方が、好きだと思ってた」
「わりと好きだよ、こういう空気。時々、おじいちゃんのお世話とかするし」
「へえ?」
小首をかしげて、百合亜は真鈴を見つめる。ふわふわと波打つ前髪が、彼女の目をなかば覆い隠し、やわらかな影を宿す。
ときおり、真鈴はそういう視線にめぐりあう。彼女をどこか侮ってかかる人、そうでなくとも彼女をよく知らない人の気持ちが、こちらにかたむいてくる瞬間の視線。
世界がそれまでと別の繋がりを生み出すその瞬間を、真鈴は、とても愛している。
「あたし、AOで受かったんだよね」
「そうなんだ。社会活動で、っていうのだよね?」
「頭悪いのかな、って思った? ちゃんと筆記試験もあったし、小論文もあって大変だったんだから」
真鈴のひとことごとに、百合亜の瞳が輝きを増す。夕暮れの陽射しが赤みを加えるにつれて、彼女は熱を持っていくみたいだった。
その暖かさに浸るみたいに、真鈴は彼女のそばに、腰を下ろした。