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第55話「泣かないな、と思った」

 その日の放課後、小田切(おだぎり)(あい)は、(なつめ)沙智(さち)を誘って、ふたりで学校のそばの人気のない公園に行った。

 途中のコンビニで、アイスを買った。愛はチョコミント、沙智は小学生の買うようなソーダバー。

 ブランコに並んで座って、ふたりでアイスをかじった。すん、と舌に沁みるミントアイスの味は、やっぱり、あの山裾のスタンドのアイスには及ばない。けれど、そのまろやかな刺激と、甘いチョコの味わいは、ふしぎとその場にふさわしいような気がした。

 沙智は、棒を横にして、着色料で青いアイスを落とさないように食べている。アイスの色は、夏の空に似ていた。それが懐かしくて親しいから、きっと、そのアイスは長いこと定番商品であり続けているのだろう。


 アイスのおかげで、しばらくふたりは無言だった。

 どちらも、言葉を切り出すタイミングを迷っていたのだと思う。


 彼女たちの間には、錆と土のにおいがあった。

 ブランコのチェーンの向こうとこちらで、視線は絶えず動いていたけれど、それは奇妙なくらいにかみ合わなくて、ふたりの視線はすこしも重ならなかった。もしも目が合えば、決定的な瞬間になるだろうと、どちらも知っていた。

 鎖で隔てられたふたりの距離は、そのとき、ひどく遠かった。


 両方のアイスが棒だけになっても、愛と沙智は、まだ言葉を発しようとしなかった。

 そうやって、何も言えないまま、夏の長い夕方さえ過ぎていくのかもしれない、とも思えた。

 ブランコから、ふたりの影が後ろに伸びていた。


 青空には、半分だけの月が、ぽっかりと浮いている。

 その目前を、鳥の群れが通り過ぎていく。一瞬、月の面に、鳥の影が映ったみたいに、愛には見えた。


「……たとえばの話」


 沙智の声を、愛は一瞬、聞き取れなかった。

 あんまり長い沈黙が、つかのま、愛に人の言葉を忘れさせたかのようだった。


 振り返ると、うつむいたままの沙智の目が愛を見ている。

 ブランコの鎖を握る沙智の両手には、ひどく力がこもって、うっすら静脈が浮いていた。そうして自分の体をどうにか地上に押しとどめているような、足を踏み外せば命はない、とでも言わんばかりの、命懸けの風景に見えた。


「10年前に、愛さんの会った女の子が、私であったとして」

「……そうなの?」


 愛の言葉は、自分でさえ笑いたくなるほど、間の抜けた響きだった。


「覚えてない。仮に、よ」


 沙智はそれを笑いもせず、ていねいに答えた。愛の方にわずかに持ち上げられた沙智の面差しは、うっすらと影を帯びていて、凹凸の見分けられない平板な顔に見えた。唇だけが、赤く、そこだけ生きているように動いて、抑揚のない言葉を紡いでいる。


「もしそうなら、愛さんは、私を好きになってくれたかな?」


「……どうして、そういうふうに言うの?」


 思わず、問い返してしまった。けれどしかたなかった。

 沙智の言っていることはまったくもって非現実的だったからだ。こんな、何もかもが曖昧になっていく夕暮れの空気が、彼女の目をすっかり曇らせているのに決まっている。

 今にも影といっしょになって消えてしまいそうな沙智に向かって、愛は言った。


「好きになるのに、思い出を理由にしなくてはいけないなんて、そんな理屈ないわ」

「……でも、それは」

「運命の人ではないから?」


 愛は立ち上がった。ブランコが蹴飛ばされたように跳ね上がって、鎖がきしんだ音を上げる。愛は大股に歩いて、沙智の目の前に回り込んだ。

 座ったままの沙智の前で、かがみ込んで、愛は真っ向から沙智の弱気な目を見つめる。


 彼女はきっと、時間が経つほどに感情がはっきりしなくなるタイプだ。

 だから、必死に、両手でつなぎ止めていようとする。

 愛とは正反対だ。

 愛の気持ちは、時間が経つほどに鮮明に色を付け、くっきりと形を為し、名前が付く。


「運命がどうだったって、関係ない。私の気持ちは、今このときの私のもの」


 もう迷いはなかった。


「私も沙智さんが好き」


 はっきりと、愛は、そう言いきった。


 沙智は、すこしの間、呆然と愛の顔を見上げていた。彼女の両手から、ふっと力が抜けて、鎖の上を滑り落ちていった。がつん、と、ブランコの座板に手首がぶつかったけれど、沙智は何も感じていないみたいだった。

 沙智の唇にわずかに空いた隙間から、空気が静かに出入りした。夏服の奥で、胸が上下していた。体の奥に隠された、高鳴る心臓のこだまさえも、愛の耳元に届いてくるように感じた。

 全部が分かるくらい、愛は沙智を見ていた。


 泣かないな、と思った。

 わあわあ泣いて愛にすがりつくほど、そこまで弱くはない。

 だって、告白してきたのはもともと沙智の方なのだ。


「……そう」


 息とも声ともつかない音がした。

 そして、沙智は、顔をくしゃりとほころばせた。


「不安になって損したよ。すぐ、そう言ってくれたらよかったのに」


 そんな言い方をしながら、でも、沙智の笑顔には、湧いてくる輝かしい感情がいっぱいに溢れていた。

 この2ヶ月、ずっと間近で沙智を見てきた愛でさえも、彼女のそんな幸せな顔は見たことがなかった。


「ごめんね。なかなか、気づかなくて」

「愛さん、ときどきすごく、ぼんやりしてるもんね」


 普段の教室でのように、言い合って、ふたりは目を合わせて笑った。

 何気なくて、いつもの会話の延長のようで、いつもと同じ距離感で、それがきらきらしている。


 ふたりの間を飛び交う、些細な言葉のすべてが、分子をつなぐ電子のように互いを結びつける。


 ふと、沙智の瞳が、愛を見つめる。黒い瞳に、一瞬、鮮明に愛の姿が映った気がした。

 鏡のような目の奥に、愛は、心が吸い寄せられるように思った。


「愛さん」

「……何?」


 問い返しながら、それが、いつも言われる言葉の予感を伴っているのに気づく。


「また、私、近すぎる?」


 沙智が、首を横に振った。二本に結んだ彼女の髪は、愛のように柔らかくはないけれど、まっすぐで強靱で、彼女の心の真芯そのもののよう。


「今は、遠いぐらい」


 そう言って、沙智が両手を伸ばす。

 近すぎるくらいのはずだった距離よりも、もっと近くに、愛を抱き寄せる。


 冷たいソーダの味のキス。

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