第52話「理想なんて待っていたら二度と訪れない」
日本史の授業の準備がある、といって席を立った小田切愛に、棗沙智は手伝いを申し出た。愛は、うれしそうに顔をほころばせる。
「ほんとうに?」
「日直、ひとりじゃ大変でしょ」
「そうね。助かる」
本来なら、今日の日直は愛と桂城恵理沙なのだが、恵理沙は朝から姿がなかった。風邪だということだったが、何の理由もなくふっと姿を消すのも珍しくない子だし、理由を深く追及してもしょうがない。
ともかく、代わりに誰かが愛を手助けしてあげないといけなかった。
ふたりでいっしょに席を立つのに、誰も声をかけなかった。むしろ、それが当たり前、とでも言うような視線ばかりが向けられているような気がした。
教室前の扉を出るとき、ちらりと室内を振り返ると、ちょうどそこにいた芳野つづみと目があって、あったかい微笑みを向けられた。沙智はひそかに顔をしかめつつ、外に出た。
前を歩いていた愛が、顔だけこちらに振り返り、苦笑して訊ねる。
「何、その顔?」
「……別に」
1年撫子組で率先して人助けする存在といえば、つづみをおいて他にいない。欠席した生徒のためにノートを取るのは当たり前で、帰り道と反対方向の家にまでノートとプリントを届けたりもしていたという。
そんな彼女でさえ、愛の手助けをするのは沙智である、と、当たり前に認めている。さっきのあたたかな視線が、そう主張していた。
ひどく、釈然としない。
けれど、そういう感情をうまく説明できる気がしなくて、沙智は押し黙る。愛は何も言わずに、前に向き直った。
後ろ姿の愛の、ふわふわに波打つ髪を見つめる。ゆるゆると歩を進めるたびに毛先がバネのように上下して、ときおり、一瞬だけ、髪の隙間からわずかにうなじの肌がのぞく。思いのほか、その肌は赤みを帯びている。
ずっと後ろの席で見つめているのに、気づかなかったことだ。
そばにいる時間が長くても、知らないことがたくさんある。
その髪の奥で脈打つ肌の温度すら、まだ、沙智は知らない。
いつもは、愛の方から手を伸ばしたり、顔を近づけたり、ともすれば鼻先がぶつかることさえある。
彼女の側から近づく気配は分かっても、背中側の温度には、触れたことがない。
行って帰る数分の時間さえ、もどかしく思われる。
黙っていないで、話しかけて欲しい。
短い休み時間、たいていの生徒は教室で待機していて、人声は室内からざわざわとおぼろげに響くばかりだ。すれ違う生徒の話し声も、単語の意味すら聞き取れない。
そんな、人の気配ばかり気にかかっているのに、目線は愛の首筋から離れなかった。
いつもの自分ではない。落ち着き払って他人を観測し、様子をうかがっている自分ではない。
変わってしまった理由は、とっくにわかっている。
クラスメートの誰か彼かから、愛の話をされる。沙智と愛との関係について、疑問混じりの問いをかけられる。
さっきのつづみみたいな目で見られる。
否応なしに、心の奥に渦巻く感情を自覚せざるを得なかった。
それでもかすかに、まだ反抗するような、否定するような気持ちが宿っているのを、沙智自身も気づいている。
たぶん、それは、その気持ちが誰かから解釈されたものを通しているからだ。視線や言葉で、規定されようとしていたからだ。
そんなふうに決めつけて欲しくなかった。自分の気持ちを、人に決められたくなかった。
数日前、高良甘南がラブレターをもらうのに出くわしたのを思い出す。
あのとき、沙智は、自分でも信じられないような大声で甘南の行動を制した。ただ見つめ、記憶にとどめるだけで、沙智は満足していたはずなのに。
それなのに、甘南が、ラブレターをいくぶん粗雑に扱う手つきを見て、つい、声が出てしまった。
きっと、差出人は心を込めて、読んで欲しいと強く願って、それを書いたはずだ。
それを雑に扱う甘南はなんという薄情ものなのか。
そう思ったら、叫ばずにいられなかったのだ。
あの瞬間、沙智の心は、見も知らぬ差出人の少女とともにあった。
もうあのときから、何かが違っていたのだ、と思う。
愛が準備室の扉を開ける。いっしょに中に入ると、独特のにおいが鼻を突く。古紙や古い布が堆積し、長い時間をかけて生じたにおい。それは、歴史そのもののにおいででもあるかのようだった。
撫子組の日本史の授業はどうもペースが遅く、まだ古墳の話をしている。どうやら先生が古代史の専門だったようで、副葬品に関する余談がやけに長かった。先が思いやられる。
「年表と、あと、地図?」
「そう。そっちの奥の、前方後円墳の場所が描いてあるの」
愛の指示に従って、沙智は細長く巻かれた地図を引っ張り出す。今ならネット上にある高精細な画像がいくらでも見れるはずなのに、翠林のロートル教師はこういう古めかしい道具にこだわる。
「パソコンの使い方、覚えればいいのにね、先生」
同じような感想を抱いたのか、愛が愚痴をこぼす。
「年取ると怠惰になるんじゃない?」
「じゃあ、あの長話も信用できないね。30年ぐらい前の研究成果でしょう?」
「だったらほんとに意味ないし。何なのあの授業」
沙智は、なんだかばかばかしくなってつぶやいた。両手で抱えた年表が、ふいに、何の役にも立たないものに思えた。有名な画家の傑作だと言われていたのが、贋作だと判明したみたいに、物自体に変化はなくても、その価値が減じてしまったように感じられる。
とたんに、これから過ごす60分の授業さえ、うつろな時間に思えた。
どっと疲れを覚えた沙智の、胸の内を見透かしたみたいに、愛が笑った。
すえた空気の隙間を縫って、沙智に届いたかすかな笑い声は、髪をもてあそぶみたいに彼女の耳をくすぐった。
「私たちもさぼっちゃう? 恵理沙さんみたいに」
愛の顔が近づく。吐息と、前髪と、鼻が触れそうになる。
近い、と、拒絶することもできない。
心臓が止まりそう、というより、おそらく一瞬止まっていて、声を出すタイミングを見失った。
「こんな臭くって狭い部屋だけれど、沙智さんといれば、退屈しないから」
そんなことを言わないでほしかった。
そうしたら、沙智はほんとうにしてしまう。ただの重たい布と化した年表をつっかえ棒にして、扉を閉じてしまう。
愛を、ここに閉じこめてしまう。
狭苦しくて、窓も開かない部屋が、この瞬間だけ理想郷だった。愛の微笑、彼女の内なる活力に張りつめた肌が、指先どころか唇の届く距離にある。手を伸ばせば、すぐに彼女の手を取れる。すこし体重をかければ、彼女を壁際に追いつめることだってできる。
そうしたいのだろうか。
そんなことは許せないのだろうか。
「なんてね。戻らないと、先生やみんなに怒られてしまう」
ふわりと、愛は、今までのすべてを冗談にする声音で、そうつぶやいた。
とっさに、沙智は、口を開いていた。
「みんなって?」
その瞬間にはもう、止まらなくなることが分かっていた。愛が、呆然としているのも認識していて、それでも、ここですべて吐き出すしかないと沙智は確信していた。
あまりにもムードがなく、あわただしく、理想的な世界とはほど遠い瞬間。
でも、理想なんて待っていたら二度と訪れない。
お話みたいな素敵な結末を待つのではなくて、沙智は、このほんの数分に賭けた。
「えっ?」
「他の誰かのことがそんなに大事?」
「沙智さん?」
「私の他の誰かが困ることがそんなに大事?」
「ええと」
「私が本気で望んだら、ずっとここにいっしょにいてくれる?」
「それは」
気の抜けた相づちを打つたび、愛の感情が消えていくみたいだった。たぶん、沙智の言葉はうまく伝わっていなくて、あとからもっとちゃんと説明する羽目になるだろうな、と頭の片隅で思っていた。試験勉強の時と同じに、沙智は、大切なことをすっ飛ばしてしまう。
早口すぎて、顔が真っ赤になっていただろう。
頭が熱を帯びて、痛いくらいになる。
それでも、最後の最後、いちばん大切な言葉を告げる瞬間に、沙智の心はようやく届いた。
「愛さんが好き。誰よりも。私は、愛さんに恋してる」




