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第51話「なんだか寂しいもの、明るすぎる夕方って」

 下校時刻を告げるチャイムが鳴った。(なつめ)沙智(さち)は、はたと気づいて自分のスマートフォンを見て、聞き間違いではないのを確かめた。ホームルームが終わってから、2時間も廊下で立ち話をしていたことになる。


「そろそろ帰りますかね」

「しかたない」


 話し相手の小田切(おだぎり)(あい)は、やけに達観したふうを装ってつぶやく。その気取った様子がちぐはぐに見えて、沙智は唇の端だけでちょっと笑った。

 特に大切な話があったわけでもない。愛が行ったという山裾のカフェの話や、沙智の家にひさしぶりに親戚がきた話や、そのほか、ありふれた話をするだけで2時間なんてあっという間だ。

 それでも、まだ話したりないし、離れがたい。そんな想いを抱えながら、沙智は、愛と並んで廊下を歩き出す。


 窓辺から、ふと外を見やる。北の山岳はすでに深い影の色に染まり始めていたけれど、裾野に広がる街路はまだまだ明るい。昼間ほど、とは言わないまでも、ヘッドライトをつけなくても支障なく走れそうに見える。

 その上に広がる空は、青く鮮やかな夏の色をしている。


「6時すぎても、まだぜんぜん明るいね」


 沙智は感心してつぶやく。愛もうなずいた。


「そうねえ。こないだまでは、すぐに日が暮れちゃうような気がしてさびしかったのに」

「あっというまに夏になっちゃうね」


 愛の方に振り返る。沙智への同意を過剰に示そうとするように、愛は何度もうなずいている。明るみの残る外よりも、むしろ蛍光灯の消えた廊下の方がよほど、夜に近い。すぐそこにいる愛の姿は、白い夏服ばかりが薄ぼんやりと、提灯やちいさな電球の明かりのように浮かび上がっている。

 ふとした瞬間に、彼女だけが、夜の中へと迷い込んでしまいそうだった。


「夏休みはどうする?」

「もうそんな話?」


 愛の問いかけに、沙智はあきれた声で問い返す。まだ中間試験も終わったばかりだというのに、気が早いにもほどがある。


「今のペースなら、明日にはもう夏休みになっていそうな気がしたの」

「終業式は?」

「いつの間にか終わっているといいわね、何もかも」

「つまり期末試験を受けたくないだけじゃないの?」


 テストの点は、沙智の方がずっといい。愛はクラスの真ん中あたりで可もなく不可もないというあたりだが、高等部から外部入学してきた沙智は編入試験の余力もあってだいぶ上位の方だ。


「困ったら、また教えてあげるから」

「沙智さんの教え方はいまひとつ実にならないのよね」

「そう? ちゃんと教えてるつもりだけど」

「なんだか、一足飛びで階段を上られているみたいな気になるの。すぐつまずいてしまう」


 階段を下りながら、愛はそんなふうに不平をこぼす。すとん、すとん、と、暗い階段にふたりの足音が響く。ずっと遠くまで届いて、かすかに反響するように思えた。沙智はことさら足下に目を配りながら、ゆっくりと歩を進める。


「でもまあ、それはしかたないんじゃない? 授業で時間かけてやったこと、短くまとめて教えるんだから」

「授業で分からないから教えてもらってるのに、よけい省略されたらもっと分からないわよ」

「……じゃあ、分かるまできちんと勉強すれば? 毎日こつこつとさ」

「面倒」

「魔法みたいな勉強法なんてそうそうあるもんじゃないよ」


 沙智はそう言って、階段の最後の一段を飛ばして廊下に跳び降りる。振り返ると、不満げな顔をたそがれの影に隠した愛が、ゆっくりと最後の段を踏んで降りてきた。

 廊下を端まで見渡しても、ふたりの他に人影はない。運動部の生徒も、とっくに練習を終えて帰ってしまったのだろう。静かな廊下をすこし歩けば、玄関まではすぐだった。


 下足箱のそばから、外を眺めると、前庭はまだ夜になっていなかった。空はポスターカラーのような水色に染まり、庭を彩る木々や、校門へと続く砂利道は、点々と影の色が塗られているほかは2時間前とさほど変わらないようにも見えた。


「まだ帰らなくていいんじゃない?」


 愛はのんきなことを言う。


「そうやって油断してると、すぐに日が沈んじゃうよ」

「そうかなあ」


 本気で疑問に思っていそうな愛の口振りを、沙智はもう否定しなかった。ほんとうに日が暮れてみるまで、夜が来るなんて信じない。たぶん、愛はそういう子どもだったのだと、沙智には容易に想像できた。

 靴に履き替えて、ふたりで外に出る。革靴で砂利を踏んで、ふいに、愛が遠くを眺めた。


「でも、夜が来るなら早く来て欲しい。なんだか寂しいもの、明るすぎる夕方って」

「そう?」

「なんだか、秘密がなくなりそう」


 ぽつん、と、景色にちいさな点を打つようなひとことだった。沙智は、心臓の止まるような思いだった。

 彼女はすでに、愛への感情を強く自覚している。それでも、つとめて、それを表に出さないようにしながら、沙智は愛と普段通り言葉を交わし、笑っている。

 その奥に潜む、強くて熱い感情が、もしも愛に知られていたら。それを、彼女が拒絶してしまったら。

 沙智は、ひそかに唇を噛んで、胸中のざわめきをやり過ごす。


 愛も、沙智も、それから何も言わずに、砂利道を歩いていく。決まったリズムで、砂利のつぶれる音が、沙智の周りの空気を追いつめていくみたいだった。一歩ごとに、夜が近づく。


 校門の、いかめしい柱のそばまでやってくる。手前の車道を、ヘッドライトをつけた車が通過していく。


「ねえ」


 沙智はちいさくつぶやく。愛が振り返り、首を傾げる。その、幼さすら感じさせる表情を見て、沙智はどうしてか、言い掛けた言葉を飲み込んだ。


 今のうちに、ふたりだけの、秘密を。


 夏になる前に、とろけるような暑さがふたりの心を溶かしてしまう前に。

 この、まだ暮れ残る夜気の中でなら、ずっと大切な気持ちをきちんと言葉にできる。


 そう分かっていながら、沙智は、もう、口を開けなかった。勇気も、タイミングも、想いも、すべてが揃う一瞬を、彼女は取り逃がしてしまったのだった。


「帰ろ?」


 愛がそう言って、沙智はうなずく。歩道を照らす街灯に導かれるように、ふたりは、帰り道を歩き出した。

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