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第50話「そんなにあたしの耳、興味ある?」

 渡り廊下の真ん中で、(なつめ)沙智(さち)は、手すりに寄りかかっていまにも落っこちそうな梅宮(うめみや)美礼(みれい)の姿を見かけた。

 ゆらり、と、美礼の頭が手すりを越えて、空中に乗り出す。

 沙智が声を上げそうになる直前、美礼は手すりに預けた体を勢いよく廊下側に引き戻した。たん、と彼女の上履きがやけに軽やかな音を立てて主を支える。美礼はそこに立って、手にしていたタブレットの画面にスタイラスを走らせる。


 その間、美礼はずっと、中庭の真ん中を見つめていた。

 沙智は、美礼の見ているものよりも、そんな彼女の視線それ自体に興味を抱き、足を止めた。


 美礼というクラスメートがいくぶん変わった生徒であり、一部の界隈では有名人であることは、沙智もよく知っている。

 いつでもタブレットを持ち歩き、隙あらばそこに絵を描いている。そのモチーフは、人のこともあれば、何気ない風景のこともある。ときには、誰もいない廊下で、天井の一点をじっと見つめていることもあった。

 心を別世界にでも追いやって現実を見失うのか、よく遅刻したり授業を欠席したりする。同じクラスになって一ヶ月で、美礼が一時限目に遅れたのは十日、授業に遅刻した回数はその三倍に達している。有り体に言って、問題児だった。


 そんな彼女は、しかし一方で天才ともてはやされてもいる。

 美礼は中等部のころから漫画研究部に所属し、彼女が部誌に掲載した作品はどれも傑作として絶賛を浴びているそうだ。ネット上でも匿名で作品を発表しているという噂もあるが、詳細は不明で、本人も明快な返答をしたことはないらしい。生徒たちの間で、”梅宮美礼の作品”探しがときどき盛り上がって、あれが、これが、と候補作が浮かんでは消えるという。


「ねえ」


 突然、美礼がこちらを見た。手入れもしていない太い眉の下、大きく見開かれた目が、ぴたりと沙智の胸元を射抜く。

 息が止まって、返事ができなかった。


 押し黙る沙智に対して、美礼は思いのほかよく通る声で問う。


「そんなにあたしの耳、興味ある?」

「え?」


 今度は、声が出た。驚きが、我慢できずに胸から飛び出したみたいな、間の抜けた声だった。


 出し抜けに奇妙なことを言われたからではない。むしろ、正鵠を得ていたからだ。

 沙智はずっと、美礼の、きれいに弧を描いたなめらかな耳を見つめていたのだった。


 渡り廊下を6月の風が吹き抜ける。美礼の手入れされていないぼさぼさの髪と、沙智のきつくまとめたツーテールが、そろって風にあおられて、生き物みたいに揺れた。

 その一瞬の間に、美礼は、沙智のすぐそばに歩み寄った。

 好奇心旺盛そうな視線が、じっと、沙智を突き刺している。


「顔とか、手とか見られるのは、よくあるけど。耳を見てるのは珍しいよ。でもすごい、よく気づいたね」

「気づいた、って?」

「あたしが、耳を使って描いてること」


 謎かけみたいな言い方だった。

 だけど、それでむしろ沙智は、自分の行動に得心がいった、と思った。

 胸中でこっそりと安堵しながら、沙智は言葉を紡ぎ出す。ずいぶんひさしぶりに、呼吸ができる気分だ。


「美礼さんの耳って、よく動くからさ。それに、ときどき、目で見るより早く物事に気づいてるみたいなときあるし」

「よく見てるのね。いつのまにそんなにあたしを観察したの?」

「教室とかだよ。私、同じクラスなんだけど、覚えてる?」

「人の顔は覚える方だよ。でも、そんなに見られてたとは知らなかった」

「美礼さん、私の方なんか見ないんだもん」


 不満げな口調で言う沙智の口元を、美礼はじっと見据える。唇をかすかに曲げて、なにか、腐ったもののにおいでも嗅いだような顔。


「それで満足なんでしょ?」


 ちいさく、沙智は肩をすくめた。

 そうだ、たしかに、沙智は人の注目なんかに興味はない。むしろ、彼女が他のみんなを安心して観察できることのほうが、ずっと大切で、意味があると思っていた。


「私、そんなに嘘が下手かな?」

「どうかな。あたしが、そういうの得意なだけかも。他の人、全然気づかないみたいで、ふしぎ」

「……そうだよね。それは、私も同感」


 沙智には、誰かの嘘の気配は、絵の具でべったり色を付けたみたいによくわかる。大人なら多少は隠すのがうまいけれど、翠林の生徒は素直な子たちばかりだから、一目瞭然だ。

 嘘やごまかし、秘密、葛藤、不満、そういう後ろ暗い思いを宿した女の子は、まるで薄墨を塗ったみたいに見えてくる。

 反対に、誠実で、真っ直ぐで、強い子たちの姿は、明るい色の水彩で染めたみたいに見える。


 でも、その両方が混じり合ってこそ、描き出される模様は深みを持つ。

 初夏の中庭よりも、筋雲が浮かぶ淡い色の空よりも、ステンドグラスの内側で輝く礼拝堂よりも、彼女は、人々の感情が織りなす風景に魅了されている。


 ふと気づけば、あたりから人声が消え失せている。渡り廊下に残っていたのは、美礼と沙智のふたりだけ。


「誰か迎えにきたよ」


 美礼が言う。一瞬遅れて、同じクラスの生徒が渡り廊下の入り口に顔を出した。こんなところにいたの、と、息せききって彼女は沙智を呼ぶ。


「じゃあ」


 沙智は踵を返して歩き出す。たぶん美礼は絵を描くことに没頭したいのだろうと予想できたし、実際、彼女はその場から動き出そうとはしなかった。

 ただ、沙智の予想と違ったのは、美礼が、中庭の様子ではなく、沙智の背中をいつまでも見据えていたこと。


「ねえ」


 背中に、美礼の声が突き刺さってくる。


「好きな人がいるの?」


 ずどん、と。

 巨大な武器で殴りつけられたように、沙智はくらりとよろけた。目の前が真っ暗になって、一瞬、向こうにいるクラスメートの姿さえ視界からかき消える。爽快な陽射しも、真っ白い校舎も吹っ飛んで、つかのま、何も考えられなくなる。

 一瞬後、はっと目を開けた沙智は、迎えにきたクラスメートに体を支えられていた。

 どこか遠くで聞こえるような声に、あやふやな返事をしながら、沙智はふと、恨みがましい目で振り返る。


 美礼はすでに、手すりによりかかって、校舎を囲うフェンスのさらに果てを見はるかしていた。


 墜落させられたのは、沙智の方だったらしい。

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