第49話「劇的な振る舞いは伝染するのかもしれない」
「穂波さん、その肩のとこ、どうしたの?」
体育の授業のあと、マットを片づけていた棗沙智は、いっしょに倉庫内にいた木曽穂波の肩にサポーターが貼られているのを見つけた。すこし注意すれば右肩が不自然に膨らんでいるのが分かるが、ほとんど目立たないし、穂波の行動もとくに不自然な様子はなかった。
指摘された彼女自身、気づかれたことに驚いたような様子だった。
「たいしたことじゃないよ。昨日、ちょっとね」
「部活?」
運動部には怪我がつきものだ、と思って沙智は尋ねたのだが、穂波は首を横に振る。
「部活といえば部活だけど、自分の用事じゃなくて。演劇部の手伝いにね」
「ああ」
何となく納得してうなずいた沙智に、穂波はすこし怪訝な目をする。こちらが理解を示すのが不自然だ、とでも言いたげだったけれど、穂波はそれ以上何も言ってこない。
きちんと理路をしゃべった方が、納得してくれそうだった。しかし、それをするには体育倉庫の暗くて狭くて臭い空気は耐え難い。ふたりでマットの位置を整え、外に出る。
片付けのあとの体育館は、がらんとしている。撫子組のほかの生徒は更衣室に行ってしまったし、次の時間は空いているのかほかの生徒の来る気配はない。授業中はむしろ狭いくらいに感じるのに、こうして見渡すと、天井の高さもあわせてやけに広大な印象だった。
「……で、何で演劇部に?」
ふたりでいっしょに、広い体育館を横切りながらあらためて問い返す。穂波は、なんだか話したがっていたみたいな、満足げな顔をした。
「満流さんに頼まれて、ちょっと」
「舞台に立つの?」
「まさか、部外者が翠林演劇に混ぜてもらえるわけないじゃない」
穂波は彼女らしからぬ、大仰なくらいの仕草で天を仰いで言った。その様子は、まるで空中で監視している何者かに言い訳しているみたいな様子だ。スイリンエンゲキ、という、ひとかたまりの単語みたいな表現も相まって、どことなく役者のようだった。
舞台に立たなくても、劇的な振る舞いは伝染するのかもしれない。
「大道具とか照明とか、そのへんだよ」
「むしろ、部外者にそういう手伝いさせるのもいかがなものかと思うけど」
「それは仕方ないよ。腕力も背丈も手薄みたいだし」
「それこそ満流さんの仕事じゃないの?」
撫子組でいちばん背が高いのは穂波で、その次が満流だ。高等部の演劇部だったら、背丈のある1年生なんて雑用係としてこき使われそうな気がする。翠林は古い伝統校だけあって、そうした上下関係の雰囲気にも、わりと旧態依然としたところがあった。
「それが、満流さん、次の舞台で役をもらったって」
答える穂波は、自分のことみたいにうれしそうだった。
「へえ?」
「だからあまり、力仕事はさせたくないみたい」
「ずいぶん大切にされてるのねえ」
演劇の世界には明るくないが、ちょっと役がついたくらいで蝶よ花よの扱いになるような甘い世界という印象はない。役者が裏方を兼ねる必要もないほど、スイリンエンゲキには人が多い、ということだろうか。
だとしたら、その状況で役をもらえる満流は、たいしたものだ。
「で、穂波さんがかり出されたわけ?」
「そうなの。倉庫の上の方の段ボールとか、誰も手が届かなくって。それで手伝ってたら、マネキンの頭がゴツンって落ちてきて」
「こわ」
「まあ中空みたいで軽かったから」
「それ以前に人の頭がいきなり落ちてくるのが恐いよ」
薄暗い倉庫で、いきなり無表情な頭が自分めがけて落下してきたら、沙智なら相当驚くだろう。マネキンがぶつかるのより、慌てて転んで、そっちのほうで大けがしそうだ。
そうかもね、と穂波は何でもなさそうに笑う。
「まあ、大した怪我でもなかったから。部活に差し障るといけないから、念のためって感じ」
「気を付けなよ。よその部活の雑用で痛めたんじゃ、割に合わないよ」
「そうだけど、まあ、満流さんに頼まれるとなかなか断れなくて」
「だろうね」
「……私と満流さん、そんなにべったりに見える?」
「まあ、見る人が見れば」
木曽穂波と山下満流は、この新学期の始まり以来、ずっと親しげにしている。教室のいちばん後ろ、隣り合った席だから、という以上の、何か秘密でも抱えているみたいな親密さだ。満流はどちらかというと孤高の人で、どこのグループに属すという感じでもないから、その関係はとても独特に見えた。
満流にとって大切な関係だろうというのは想像できたが、それは、穂波にとってもそうらしい。
そういうあたりは、ずっと教室内の人間関係を観察している沙智にしてみれば、当然の認識だった。
「沙智さんこそ、愛さんとずっとべったりだよね」
「……そうかな」
いきなり話をずらされたような気分で、沙智はとっさにうまい返しが思いつかない。穂波は、ちょっと仕返しでもするような口調になる。
「後ろから見てると、いつも話してるな、って思う。撫子組でも、いちばん仲がいいんじゃないかな、ってくらいだよ」
「……希玖さんとドロシーさんよりも?」
「千鳥さんと弥生さんよりも」
「そうか……」
いまさら、自分たちのことをそうやって他人から評価されてみるのは、ひどく新鮮でもあり、戸惑わせられる。
そうこうするうち、ふたりは体育館の重い扉を出て、ピロティの堅い床を歩いていた。無意識のうちに、シューズを脱いで上履きに履き替えていた。うっすら汗ばんだ肌に、外の空気がひんやりと沁みる。穂波の様子をうかがうと、彼女はちょっと肩を気にするふうだった。
「肩、大丈夫?」
「平気。授業中に痛んだら休むつもりだったけど、なんともなかったし」
「ならいいけど」
「でもありがと。意外に心配性だね、沙智さん」
くすっ、と微笑んで、穂波はふと、前屈みになって沙智に顔を近づけてくる。いつも困っているような目は、こうして間近で見ると、つぶらで透明なビイ玉のようだった。
「愛さんのこと、心配にならない? あの人も、かなり気まぐれだものね」
「私が心配することでもないでしょ。もう高校生なんだから、迷子になるでもあるまいし」
「そういうことじゃなくて」
穂波は口を閉ざし、思わせぶりに黙る。沙智は一瞬、何のことやら、という感じで、きょとんと彼女を見つめ返すしかできない。
ふたりの足取りが、廊下にさしかかる。そのつかのま、外の空気と廊下の空気が入り交じる瞬間に、穂波は言った。
「……ふたり、つきあってるんじゃないの?」
「はっ?」
足がつんのめって、沙智はずっこけそうになる。ぱたん、と思い切り踏みしめた足が大きな音を立てて、ひやっとする。近くにいた生徒がこちらを怪訝そうな目で見るので、思わず沙智は肩をすくめた。縮こめた首をちょっと動かして、沙智は、穂波をにらんだ。
穂波は、びっくりしたような顔で首をひねった。
「違うの? なんか、ふたりの距離って、すごく近い気がしたから」
「それは愛さんの顔が近いだけ。私は」
そう言い掛けて、また、足がつんのめりそうになる。言葉も、声もうまく出てこなくて、それといっしょに体がいうことをきかなくなる。それこそ、劇の真っ最中にせりふの飛んだ役者のようだ、と思った。
自動的に歩く足は、ぶしつけな音を立てながら廊下を進んでいく。一瞬、その自分の体を、後ろから眺めているような錯覚に陥る。3Dのゲームのような、幽体離脱のような。
穂波が、へんなこときいてごめん、と、どこかで言っている。音だけ聞こえて、意味が耳に入らない。
その、突然の感覚は、彼女が無意識に教室に戻るまで、ずっと続いた。
穂波と満流の関係については第2話にて。




