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第46話「手もつないだし、ちゃんと触ったもの。あやとりしたし」

 それは、小田切(おだぎり)(あい)(なつめ)沙智(さち)がいつも教室で繰り返す、他愛のないひそひそ話のひとつだった。


「子どものころに、私、一度、行方不明になったことがあるんだって」


 愛がほくそ笑んで言う。休み時間の教室のざわめきにまぎれ、その言葉はたぶん、沙智にしか聞こえていなかった。顔を近づけて話すくせのある愛の声は、いつも内緒話のように思えるし、だから、沙智は愛の秘密をたくさん知っているようなつもりでいる。

 とはいえ、今日の愛のひとことは、ただの内緒ではすまない気配がした。


「大変じゃない……っていうか、何で他人事みたいに言うの?」

「だって、私の中では、ただ外に遊びに行ってたっていう記憶しかないんだもの」


 あっけらかんとした愛の様子には、自分がピンチだったという自覚はあまり感じられない。


「心配したんじゃないの、親御さんとか」

「お母様には泣かれたかな。その時はよく分かってなかったけど、さすがにあとで謝ったよ」

「……いちおう成長はしたのね」


 あまり周囲の視線を意識していないところは、昔から変わらないらしい。

 幼いころの愛の様子が、沙智にはありありと想像できる。自分の興味の赴くままに、街角や山の中をほっつき歩いて、いつのまにかとんでもない場所にたどり着いてしまう。それで本人は、新しい景色にただ喜んでいるのだ。


「それで、無事だったの?」

「無事でなくては、ここにはいないわよ」

「いや、そこまで大げさな事態じゃなくても。怪我とかしなかった?」

「そういうのは何も。ただ、知らない女の子と会ったの」

「……あ、そういう話?」


 沙智の背筋がちょっと冷たくなる。急に気温が上がったからといって、早速怪談をするつもりなのだろうか。愛には、そういう奔放なところもある。

 しかし愛の方はといえば、自分から話を振ったわりに、ぼんやりした感じで首をひねった。


「それがよく分からないのよね。あれが実在の人だったのかどうか。夢かもしれない」

「……まあ、そこの判断は置いとこう」


 物事に頓着しない愛のことだから、あいまいなことしか覚えていないに違いない。詳しく聞いたところで、よけいに混乱しそうだ。それよりは、彼女の素直な感覚を言葉にしてもらった方が良さそうだ。


「で、その子はどんな子だったの?」

「かわいい子だったよ。私より背が高くって、すごく細くて。睫毛がすごくきれいだった。ほんとう、この世にいる子ではないみたいだったよ」

「やっぱりそういう……」

「うーん、でも手もつないだし、ちゃんと触ったもの。あやとりしたし」


 両手を沙智の顔の前でひらひら動かして、愛はなつかしむように言う。


「愛さん、手が近い」


 彼女の指先が鼻に当たりそうだったので、思わず沙智は指摘した。うっかりすると、彼女はすぐにこちらに手や肩をぶつけてくるから、油断ならない。

 その距離感は、沙智にとっては、ひどくひやひやする。


「あ、そう?」


 はっとしたように愛は両手を引く。その瞬間だけは意識しても、どうせ明日には忘れてしまうだろう。それはそれで、別にかまわないけれど。


「それで、何の話だっけ?」

「あやとり」

「ああ、うん、あやとりしてたの。その頃の私、あやとりなんてしたことなかったんだけど、1日で天の川とか取れるようになったし」

「……楽しかったんだ?」

「そうね。夢中になってたのは、よく覚えてる」


 愛の言葉は、どことなく奇妙な響きだった。沙智の場合は、何かに熱中している時は何も覚えていなくて、あとに残るのは高揚した感情だけだ。

 今こうして愛と喋っている時間のことを、どれだけ覚えているだろう。


「何かなかったの? 証拠みたいなの」

「それが何も残ってないのよね……いっしょにアイスは食べたけど。そういえば、真夏だった」

「ますます怪談じみてきた……」

「そうねえ。なんだか蜃気楼か逃げ水みたいで」


「実は近くに住んでた、とかない? 家に帰っただけだったり」

「あ、その可能性はあるね。ぜんぜん気づかなかった」


 やるね沙智さん、と、愛が人差し指でこちらを指さす。


「じゃあ、お母様に場所を聞いたら、誰なのか分かるかもしれないなあ」

「探したいの?」

「もし見つかったら、素敵だと思わない?」

「……まあ、たしかに」


「なんだか、翠林の生徒のような気がするんだよね。なんだか、そういう雰囲気のある子だった」


 愛のひとことは、なぜか、おそろしく唐突な印象で沙智の耳に響いた。まばたきして、あたりに視線をめぐらせる。

 何の変哲もない教室の景色が、強い光を浴びせすぎた映像のように、白飛びして見えた。普段通りのクラスメートの語り合いさえ、幻のようだった。

 ……沙智は、まぶたを押さえながら、カーテンを閉める。初夏の陽射しは思いのほか眩しすぎて、いつの間にか目をやられていたのかもしれない。


「撫子組の子だったら、ロマンチックよね。運命みたいな気がする」

「……そうかなあ。ずっと同じ学校なんだし、同い年ならそのうち出会いそうなもんじゃない。ロマンってほどでは」

「えぇ……沙智さん、そんなに夢のない人だっけ」

「あんまり愛さんが夢見がちすぎるから」


 わざと冷たい声を出して、そう言ってみる。

 しかし、愛はさほど苦にした様子もなく、かるく唇をとがらせるだけだ。


「でも、さっき、ふっと思い出したんだよね、このこと。もう10年くらいは忘れてたのに」


 言って、彼女はにこりと微笑み、教室を見渡す。愛の瞳は、まるで夏の蜃気楼を追いかけるみたいに、うっとりとしている。


「……あんなに目のきれいな子、いるかな」

「美化しすぎなんじゃない? 思い出だし」

「かもねえ。会ったらがっかりしちゃうかも」

「夢なんだから、壊さない方がいいよ。大切に持ってれば?」


「うん。でも、現実とつながったら、それはそれでいいよね、夢って」


 いつまでも、教室のほうを遠くを見るように眺めたまま、愛はそうつぶやいた。

 やっぱり、愛は最後まで諦めきれないらしい。そういう、心の芯に強い何かを持っているところも、彼女の取り柄だ。

 そういう愛を否定することは、沙智には不可能だった。


「かもね」


 沙智はあいまいにうなずいて、じっと愛の横顔と向き合う。夏の日が彼女の目に薄い影を宿して、ちかちかと、睫毛が光っている。


 たとえば、沙智が愛の夢に出た少女だったとしたら、それを今、打ち明けられるだろうか。

 そんな、無意味でも大切な疑問の答えをずっと出せないまま、沙智はただ黙って、愛の横顔を見ている。

期せずしてタイムリーなネタになったしまった感がありますが他意はないです。

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