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第44話「生徒会に入ったら、何したい?」

 舟橋(ふなばし)妃春(きはる)にとって、運動部のロッカールームを訪れるのは、ひどく場違いな感覚がある。スポーツには自信がないし、部活にも積極的ではないから、どうしてもこういう空間とは縁遠くなってしまう。女子のロッカールームに独特な、汗と制汗剤と香料の入り交じったにおいと、肌にまといつくような熱気は、これからますます暑気を増す季節とあってひときわ濃厚に空気を満たしているような気がした。


「ああ、妃春さん」


 入り口のいちばん手前にいた飯塚(いいづか)流季(るき)が、妃春に向き直った。真っ先にジャージから制服に着替え終えていた彼女は、妃春の存在にもさほど違和感を覚えた様子もなく、後ろで結んだ髪をさっとかきあげた。


「ひょっとして、練習試合の?」

「ええ。問題なし、ということで承認だそうよ」

「了解」


 うなずいて、流季は人なつっこく笑う。


「わざわざ報告しにこなくてもよかったのに」

「そうもいかないわ。万が一、伝達ミスでもあったら大変だもの」

「真面目ねえ」


 からかうような、半分あきれるような流季の声音を聞き、すこし妃春はいらっときてしまう。やるべきことを最短ですませているだけなのに、笑われる筋合いはない。

 と、流季は両手をぱたぱたと振って、すぐに表情を変えた。その目にはもう、揶揄するような色はない。


「ごめん、馬鹿にしたつもりはなかったんだけど」

「……別に」


 先に謝られてしまっては、妃春としても怒るに怒れない。

 ともあれ、とりあえず用事は済んだ。妃春が出入り口のそばにいるせいで、他のサッカー部員たちの出入りのたびに、なにやらふしぎそうな目を向けられる。いつまでもここにとどまる必要はない。


「それじゃ」

「妃春さん、これから暇?」


 出て行きかけた妃春に、流季が問いかけてきた。


「生徒会室に報告」

「じゃあ一緒に行かない?」

「……どうして」

「おなか空いたから。どっかでいっしょにご飯食べてこうよ」


 流季の話のつながりがよく分からない。しかし、とりあえず、妃春が下校するまでくっついてくるつもりなのは確かなようだ。

 正直、気は進まない。執行部の会議がある日の帰りは、いつも”お姉さま”といっしょに帰るようにしている。そこに割って入られるのを想像するだけでも、かなり気分が悪い。よしんば、”お姉さま”が流季の存在を認めて、3人で寄り道、なんてことになったら、どんな思いがするだろう。


「用があるから」

「じゃあ、生徒会室まででも。サッカー部のマネージャーとして、ね」


 彼女のその肩書きが、強引さの理由になるとはとうてい思えなかった。しかし、ここで押し問答して流季を説得するよりは、ひとまず彼女の主張を通した方が、話は楽になるだろう。(あゆみ)と比べれば、流季のほうがよほど話が通じるはずだし。


「分かった」


 妃春はうなずいてロッカールームを出る。そのあとから、足早に流季がくっついてきた。真横についてくる流季の肌からは、初夏の夕暮れの熱が残って、じんわりと妃春まで伝わってくるようだった。

 ちらりと流季に目をやると、彼女は一瞬きょとんとした顔をして、それからふと自分の肌に手をやった。


「やだ、汗くさいかな?」

「気にならないわよ、そのくらい」

「いやはや、ごめんねガサツで」

「でも、マネージャーなのにそんなに汗かくものなの?」

「はは、こちとら選手より動くマネージャーだからね」


 流季の冗談は、しかし、妃春の印象とさほど違ってもいない。

 執行部役員候補でもある”ソロリティ”の一員として、彼女は諸部活の活動の様子もある程度は把握している。サッカー部の練習にはあまり激しさはなく、接触プレーさえも恐れているようなおとなしい印象があった。そんな中で、マネージャーの流季ばかりが大声で指示を出し、タッチライン沿いを走り回ってプレーのだめ出しをしていたのが、妃春の記憶に残っている。

 あの中で、誰よりレギュラーにふさわしいのは流季ではないだろうか。


「でもまあ、あたしはマネージャーの方が性に合ってるし」


 妃春の思いを察したように、流季は付け加えた。たぶん、同じようなことを他の人に何度も言われたことがあるのだろう。まるで用意していた原稿を読み上げるように、流季はしゃべり続ける。


「サッカーってチームプレーだけど、やっぱり、我を通す局面が出てくるよね。そういう場合の判断が素早く的確にできないと、選手はつとまらない。シュートを打つか、ドリブルで攻め入るか、パスするか。引いて待つか、タックルするか。そこで迷わないのが選手の務めだし、その瞬間には他の誰も目に入らない方がいい。あたしは、それが苦手でね」

「全体が見えた方がいい局面だってあるでしょう?」


 その点だけでも、流季の実力は他のどの選手よりも勝っているように思える。

 もちろん、流季も同じ質問を予測していたに違いない。彼女は、短いスカートを蹴り上げるようにしながら、今にも駆け出しそうな勢いで歩を進めて、答える。


「そりゃ、ね。いいパスやラインコントロールができれば、1対1が弱くてもお釣りがくる。でも」


 とん、と、廊下の端まで届くような小気味よい足音が、流季の足下から響いた。彼女は、妃春よりも半歩前に出て、両足で廊下を踏みしめながら、平均台の上でも渡っているような仕草で両腕を広げ、くるりと振り返る。お下げ髪が、ひゅん、と回転する。


「選手としてじゃあ、できないこともあるからね」

「……」


 妃春は、あえて何もいわずにうなずき、流季の広げた左手をちょっとよけながら歩んでいく。後ろから、流季が訊ねる。


「それって何、とか訊かないの?」

「だいたい分かる」


 ピッチ全体が見えれば、自分がどういうプレーをするのが最適なのかの答えも、ちゃんと見える。

 ただ、それは、他の選手がみんな全力を出してくれる、という前提の上でだ。

 疲労、体調、モチベーションの低さ、いいプレーを阻害する理由は様々ある。翠林のサッカー部の選手の場合、最大の問題はいちばん最後。つまり、やる気をちゃんと出してくれるか分からない。毎年一回戦負けの部活で、そんなに高い志はなかなか抱けないから。

 いくら流季ひとりが孤軍奮闘しても、他の選手が動いてくれなければ、いいプレーも無駄になる。流季が他人をうまく使うタイプなら、なおのこと。


 けれど、それを口にしたら、流季は仲間の部員を糾弾することになる。

 だから、妃春も訊かなかった。


「まあ、結局、あたしには外から全体を見てる方が合ってる、ってこと」


 そう言って、流季は階段を上り始める。中学生の男子みたいに、一段飛ばして駆け上がるくらいが、彼女には似合うような気がした。けれど、流季もさすがに高校生の女子だし、翠林の生徒だ。一歩ずつ、しっかり地に足の着いた歩き方をする。妃春は、その横を歩きながら、流季の晴れ晴れした微笑を見やる。

 それは、自分の居場所に満足している人間の、安定した笑みだった。生徒会長や、執行部の3年生がときおり見せる、満たされた表情。

 踊り場の窓から降ってくる、わずかに残るたそがれの陽光が、その笑顔をあたたかく彩っている。誰より声を発し、誰より走り回った彼女の体から生じる、充実した熱量が、輝いていた。


 妃春は、それを、心に留めておこうと思った。


「妃春さんは、さ。生徒会に入ったら、何したい?」


 ふと、流季が口を開いた。唐突な問いに、一瞬、妃春は答えが見つからない。


「何、って、何よ」

「何か。何かありそうな気がしたからさ、妃春さんには、そういう野望みたいなの」

「野望って……」


 いきなり大きな単語を出されたせいで、妃春は失笑してしまう。生徒会の仕事なんて、決められた行事を粛々と進め、期間も予算もオーバーせず、1年を乗り切ることぐらいだ。マンガみたいに、生徒会が大きな権力を握って好き放題するなんて、考えたこともない。


 流季は、笑われたことが心外なのか、むっとした顔でこちらをにらんで、しかし何も言ってこようとしない。むしろ、何かちゃんとした答えがなければ承知しない、とでも主張するような顔だ。

 答えられることなんてない、と言おうとしたけれど、気が変わった。


 妃春はそっと、耳の後ろの髪をかきあげて、まじめな顔で言った。


「おいしいお茶で、先輩とお客様をおもてなしすることかしらね」


「……あは!」


 わざとらしく階段につまずくそぶりを見せながら、流季は思いっきり笑った。マネージャーで鍛えられた大声が、窓の外までこだまする。

 そのかたわらで、妃春も、口元に手を当ててくすくす笑う。

 ふたりの笑いは、長いこと、日が暮れて、学校中の蛍光灯が消されるまで、続くみたいだった。

流季はだいぶ久々ですね……17話以来かな?

妃春と百合亜(今回出てきてないけど)の話もここらで一段落。

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