第38話「1年生だからといって蚊帳の外なんて耐えられない」
放課後の礼拝堂。ふだんは聖歌隊の生徒たちの唄う聖歌が響く空間が、今日は硬質なざわめきに満たされていた。聖歌隊の上級生たちの落ち着いた声音に相対するのは、生徒会執行部の面々のいくぶん冷たい響きだ。
高等部において指導的な役割を担う彼女たちは、定期的にこうして会合を持ち、今後の学院内での活動について何くれと話し合っている。
とはいえ、それは上級生だけの話で、役職もない1年生はじっとそばに控えるしかすることがない。
さりげなくあくびをかみ殺した三津間百合亜を、ちらり、と隣の生徒がにらんだ。だって退屈なんだもん、と言いたかったが、さすがにやめておく。
他にも、自分みたいに暇を持て余している子がいるに違いない。あたりに目線をやると、何か落ち着かなそうな雰囲気の生徒の姿が目に入る。その顔を見て、百合亜は内心でほくそ笑んだ。
よく知っている子の顔だったからだ。
会議が終わって、そのまま解散になった。連れ立ってぞろぞろと帰っていく生徒の中から、百合亜は、舟橋妃春をつかまえた。さっきまでは胸の内に隠していた笑いを表情に出して、妃春に話しかける。
「妃春さんも暇そうだったね」
「……何言ってるの」
振り返った妃春は、きわめて心外そうな顔でつぶやく。百合亜はなおも、にやにや笑いを崩さない。
「見てたよ。落ち着かない感じで、肩とか揺さぶってて。いまにも帰りたそうだったじゃない?」
「あなたと一緒にしないでよ」
不快さを隠しもせず、妃春は振り返った。自然と、百合亜は足を止める。生徒会役員と聖歌隊の面々が帰っていくのをしり目に、ふたりは礼拝堂の入り口の階段のそばで足を止める。
「サボりたかったわけじゃないの。むしろ逆。もっと議論に参加したかった」
前のめりになって、妃春は百合亜に詰め寄ってくる。
「1年生だからといって蚊帳の外なんて耐えられない。そういうことなの」
「あ~」
妃春の迫力は、他の生徒ならちょっと怖じ気づくくらいの険しさを孕んでいる。しかし、百合亜にとっては恐るるにたりない。
「そんなに、お姉様にいいところ見せたかった?」
そう言ってやると、妃春は、ひどく複雑に頬をゆがめた。一瞬、彼女の視線が動いて、遠くなっていく先輩たちの背中を追う。
その切なげで、焦燥と不安に取り憑かれた横顔こそが、百合亜の知っている妃春だ。
教室で仏頂面をしている妃春なんて、まるで別人だと思う。
「焦らなくても、そのうち追いつけるよ」
「……そのうちなんて」
妃春は首を振って、顔をしかめる。
「そう言っているあいだに、あっという間に、1年も2年も過ぎてしまうのよ」
「わたしたち、まだ高校1年生だよ」
ふわあ、と、さっきし損ねたあくびを大きくして、百合亜はその場にしゃがんだ。
待ちかねていたように、この辺を住処にしている猫がよってきて、百合亜のすねに顔をすり寄せる。気性の荒い猫だけれど、百合亜にはかなりなついてくれている。
百合亜が猫の頬を指で撫でると、猫はごろごろと喉を鳴らす。
「成長するのに、焦ることないよ」
「……あなたは、緩すぎだわ」
肩を落とし、ため息をつく妃春。かるく視線を落として百合亜を見つめる彼女の顔は、ふだんよりいくぶんおだやかに見える。まともに正面から向き合うと厳しさに圧倒されてしまうが、彼女は上には甘え、下には優しい子だ。
だから、百合亜は彼女の正面には立たない。
「あなたのお姉様だって、1年生のころは、そこまでじゃなかったんじゃない?」
「あの人はずっと私の目標だったわ。高くて強くて」
「……認識に齟齬がある気がするの」
猫の顔の、意外とごつごつした手触りを感じながら、百合亜は苦笑してしまう。けれど、仕方がないことだろう。
同じ人を見ていても、視点が違うのだから。
百合亜がかの人を見る目には、百合亜の姉の視点が混じっている。あの人に会う時には、いつも姉がいっしょだった。
「いずれにせよ、私はあの人に追いつきたい、できれば追い越したいの。時間は、いくらあっても足りない」
首を振って、妃春は百合亜に背を向ける。雑談で時間を無駄にした、とでも言わんばかりに。
その刺々しい妃春らしさは、百合亜にとってはむしろ、愛おしくさえ見える。それは、他のクラスメートとはまったく別の視点で、彼女しか知らない見え方だ。
だから、よけいなお世話でも、つい妃春にひとこと言ってあげたくなる。他に口にする人はいないんだから。
「もっとのんびりしなよ。慌てない方がいいことだってあるんだから」
はあ、とため息をついて、妃春が振り返った。足を止めずに、言い放つ。
「とっくに競争を降りたあなたには、分からないわよ。脇役みたいな顔して、えらそうに言わないで」
フゥッ、と、甲高い声を発した猫が、恨みをぶつけるように妃春に飛びかかる。爪を立てた猫の襲撃を、しかし妃春はすんでの所で逃れた。
猫が大きく口を開いて、牙をむき出しにし、威圧するような鳴き声を発する。それを正面に見すえ、しかし、妃春は猫の怒りを恐れもせずに、曲がるくねる道をさっさと歩み去って行く。高らかに響いた足音は、すぐに消えた。
猫は、妃春の勢いに当てられたように、どこかに行ってしまう。
かくて、百合亜だけがひとり、その場に残される。
腰の下の石段が、ふいに、ひんやりと感じられた。




