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第4話「あなたの耳には、いつも、そんなふうに音楽が聞こえてるの?」

 夕刻の教室、彼女は、大きなギターケースを抱えてぽつねんとたたずんでいた。


(つぐみ)さん?」


 ドロシー・アンダーソンはとっさに、彼女、津島(つしま)鶇の横顔に声をかけた。机に置きっぱなしにしてしまったペンケースを取りに来ただけで、長居するつもりはなかったのに。


 鶇は、いま初めてドロシーの存在に気づいた、とでも言うように、ゆっくりと振り返った。右側だけで結った髪が、外から届く陽射しにかすかに光る。自然と外側に反って跳ねているその髪は、右と左でまるきり別の形をしているみたいに見えた。

 眠たげな目を一度まばたきして、鶇はじっとドロシーを見つめてくる。


「何か用事?」

「ううん。そっちこそ、何をしているの?」

「聞いてたの」

「聞いてた?」


 思わずオウム返しにドロシーは問う。別に音楽が流れてくるわけでも、工事や何か、変わった音がしているわけでもない。鶇の耳にはイヤホンらしきものもないから、彼女だけに聞こえる音があるのでもなさそうだった。

 ドロシーの疑問を、すぐに察したのだろう。鶇は肩をすくめて言葉を付け足す。


「グラウンドとか、廊下とか、音はいろんな所にある。耳を澄ませば、なんでも音楽になるよ」

「そういうものかしら」


 首をかしげてドロシーは、口を閉じてあたりの気配に耳を傾けてみる。部活動の遠い喚声、表の道路から聞こえる自動車の走行音、廊下を歩く誰かの足音。それらささやかな音が渾然となって、ドロシーの耳をささやかにくすぐる。

 けれど、別にそれが音楽だという気はしない。彼女にとっては、おおむねただの雑音だった。


「よくわからないわ」


 言い捨てて、ドロシーは自分の机に手を伸ばし、青一色の質素なペンケースを取り出す。中でじゃらじゃらと筆記具が音を立てる。そのまま帰るつもりだったドロシーは、しかし、振り返りかけて足を止めた。

 ふたたび鶇のほうを見て、問う。


「あなたの耳には、いつも、そんなふうに音楽が聞こえてるの?」


 彼女は自然から、楽曲をつかまえているのかもしれない、と思った。

 鶇は軽音部の所属で、茶色いギターケースも部活で使っているベースをしまっているものだ。作曲の経験があるとかで、部でもちやほやされている、という噂はドロシーも小耳に挟んだことがある。

 ただ、その反動か何かのように、教室での彼女はひどく物静かで、ドロシーもあまり言葉を交わしたことはなかった。


 すこしだけでも、彼女の秘密を知れるのかもしれない、と思った。


 けれど鶇は、首をかしげて「どうかな」とつぶやく。


「自然に聞こえてくる音と、作る楽曲は別、って気がする。すくなくとも私は、いま流れている音を曲にしようなんて思って、音楽を作ったことはない」

「じゃあ」

「ただ、好きだから聞いてるだけ」


 そう言って、鶇はすこしだけドロシーのほうに顔を寄せてくる。ちょうど光と陰の境目にいるみたいに、鶇の面差しが陰影を宿す。


「ドロシーさんは、何も感じないの?」


 それは、鈍感な彼女に対する疑問か皮肉なのかもしれなかった。しかしドロシーの胸に、それは刺さらない。


「興味を持ったことがなかっただけ。たぶん私は、どちらかというと、余分な音を切り離したいって思ってる」


 ぼんやりと、顔かたちさえ判然としなくなったつぐみに向き合いながら、ドロシーは独白みたいにつぶやいた。


 ドロシーが書道を始めたのも、それが理由だったと思う。よけいな言葉を排して、ただまっすぐに、書くべきことば、目標とする書と向かい合うときに、彼女は雑音を忘れられた。自分の中の言葉と、目の前の白紙だけに集中する、その境地が心地よかった。


 自分の周りにしばしば生起する、くだらない雑音。それはとうてい、音楽と呼べるものじゃなかった。

 名前に似合わない、と言われて、まっすぐな黒髪をあえて長く伸ばした。日本人らしい顔立ちを強調するように、太い眉も整えない。目じりと口元を引き締めれば、いつしか、雑音は消えた。


 鶫だって、そういう音を聞かないはずはないのに。


「鶇さんの耳は、きっと、貝殻みたいにきれいなのね」


 だから、さざ波さえ音楽に聞こえる。


 ふいに、鶇の顔に光が戻った。驚いたみたいに体をそらした彼女は、そのまま一瞬、ぽかんとドロシーを見つめる。彼女の半目がいきなり、大きく膨らむ。濃厚なブラックコーヒーにも似た色の瞳が、横から叩かれたみたいにきょろりと揺れた。


「書道部員ってのは、自分で詩も作るの?」

「……忘れてよ。ちょっと気取りすぎた」


 顔をしかめて、ドロシーは今度こそきびすを返す。その背中を、つぐみが呼ばわる。


「ドロシーさん」

「何よ」

「さっきのフレーズ、使わせてよ。私、曲は作るけど作詞って苦手でさ。先輩に頼まれて、困っちゃってて」

「勝手にすれば」


「曲のタイトルも”ドロシー”にするけどいい?」

「はぁ!?」


 さすがに我慢できずに振り向くと、鶇は白い歯をむき出しにして笑っていた。


「ずっとかっこいいって思ってたんだよね、ドロシーさんの名前」

「……好きにしなさいよ!」


 似合わないと言われてばかりだった名前を、真っ正直にほめられるのは、いまでも落ち着かない。ドロシーは早足に教室を飛び出し、廊下を駆け足で突っ切っていく。途中でシスターに叱られたけど、かまわなかった。

 彼女のそんな、照れくさい足音さえ、鶇には音楽なのかもしれなかった。


11/20:鶫がドロシーを呼び捨てにしていたのを修正。

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