第37話「別に、笑わなくったっていいでしょう?」
宇都宮凛の手から、プリントの束が滑り落ちた。小テストの答案が、花びらのように廊下に散らばった。
わわっ、と、慌てふためいて、凛はその場にしゃがみ込む。足元に落ちたかたまりを拾い上げたあと、床をすべって遠くに行ってしまった数枚に手を伸ばす。
その最後の1枚を、凛とは別の手が拾い上げた。
「はい」
「あ、ありがとう。妃春さん」
プリントを手にしてそこに立っていたのは、舟橋妃春だった。彼女は、凛が両手に抱えたプリントの上に、そっと最後の1枚を裏返しに乗せる。
そのまま、凛とすれ違って立ち去ろうとした妃春に、とっさに、声をかけていた。
「さっき、すごい、笑ってたね」
凛の真横で足を止めた妃春が、こちらをにらんだ。ぎょろり、と動いた黒目の迫力に、一瞬、凛は息を呑む。
「……見ていたの?」
「あの、ごめん、別に、覗くとかそういうつもりじゃ」
舌がつかまれたみたいに回らなくなって、凛はへどもどと言い訳する。実際、別にやましいところはないのだけれど、妃春の険しい目線の前では、たじろいでしまう。その迫力は、あるいは『ソロリティ』で培ったものなのかもしれない。
しかし、さっき、凛が目撃した妃春は、まるで別人だった。
満面の笑みを浮かべて、どことなく甘えるような仕草で、彼女はかたわらに立っていた先輩と語り合っていた。
教室での、どこかぴりぴりした無表情とは対極の顔に、凛は驚いてプリントを取り落としてしまったのだった。
「人が笑うのが、そんなにおかしい?」
動揺しっぱなしの凛に、さらに妃春が詰問する。妃春の声がしだいに低く鋭くなると、凛はよけいに頭が熱くなってしまう。
「あの……笑うことがあるとは思わなかったから」
「私は何だと思われてるのよ」
「いや、何ていうか、想像できなかったってだけで。人間扱いはしてるから」
「でなければ、さすがに怒るわ」
妃春はゆるりときびすを返し、凛と向き合う。その所作はきりりとして隙がなく、そういうあたりも、翠林高等部の1年生として、いや『ソロリティ』の一員として相応しい高貴さを演出している。
やっぱり、笑顔が似合うというタイプではないのはたしかだ。
妃春は、大きく髪をかき上げて、深く息をついた。
「別に、笑わなくったっていいでしょう?」
「それは……」
その、いくぶん極端な言い方は、ふだんの妃春に相応しいように思われた。軽々に笑顔を振りまかず、冷厳とした態度を保ち、かんたんには人におもねらない、不羈の彼女。
ほとんどクラスメートと馴染むことのない妃春のことしか知らなければ、たぶん、凛は素直にうなずいただろう。
けれど、いまの凛はさっきの妃春の笑いを知っている。
「でも、笑うことだってあるんじゃないの、妃春さんも」
「時と場合によるわ。あなただって、そうでしょう?」
「……ええ」
妃春が、教室での凛を観察しているわけではあるまい。ただの一般論で、けれど、それは凛に対しても正鵠を射ている。人間関係も違えば、表情も違う。そのことを批判する筋合いはない。
「だけど、妃春さんの笑顔を、他の人が見られないのは、すこしもったいないような気がして」
美しいもの、すてきなものは、共有したい。
スマホでスナップした写真をアップするのもそうだし、好きなバンドの曲を語り合うのも同じだ。
その枠内に、めったに笑わないクラスメートの笑顔も含まれる。全世界に公開したいとは思わなくても、せめて友達とは共有したい。
妃春は、ぐっと柳眉をひそめた。
「売り物じゃないわよ」
「……別に、売ったりなんて」
「喩えよ。商売でもないのに、笑顔を振りまいたりなんてできないわ」
「友達と笑い合うのも商売だと思ってる?」
「軽々しく、友達なんて言葉、使わないで」
ぴしゃり、と言い切られて、いよいよ凛は言葉を失った。ふたたび手から力が抜けて、突然、手の中のプリントが重たくなったように感じる。
その重みと同時に、妃春の重ねた言葉が、凛に刺さる。
「……そんな思いつきで、人を責めるのはみっともないわ。ほんとうは私に興味もないくせに」
「ないわけじゃないよ」
重苦しさをはじき返すように、凛の声が跳ね上がった。立ち去りかけていた妃春が、目を見張って、凛を見つめ返す。
「っていうか……これから、興味持ちたい、っていうか、気になるから、もっと、話してみたい、って気分に、なった……の……」
冗長になっていく言葉の中で、どうにか凛は自分の気持ちを訴えようとする。
妃春はすこしの間、その場にとどまって、凛の面差しを値踏みするように見ていた。目線のいくぶん忙しない動きに、なんだか、隅から隅まで探られている心地にさせられて、凛はどぎまぎする。
そして、妃春は肩をすくめて、歩き出した。
「いまはそんな余裕、ない」
低くつぶやいた妃春の言葉だけが、ふわりと空中に跡を残すようだった。
振り返って、凛は、彼女の背中を見送るばかり。
妃春の歩調は、まるで、自分を追い込んでいるように早い。淑やかさを崩さないぎりぎりの範囲内で、彼女はぎりぎりの強さを追及しているのかもしれなかった。
その強靱さの中に、友達選びも、笑顔の必然性も、含まれているのだろう。
彼女のそんな価値観は、きっと、凛の手の届かないものだ。
そう思っているはずなのに、凛はずっと、妃春の背中から目を離せなかった。見えなくなっても、見ていた。




