第3話「草や木に生まれたい、ってやつ?」
「おはようさん」
「ごきげんよう」
通りがかりの女性に挨拶されて、小室雪花は、翠林の生徒にふさわしい落ち着いた物腰でおじぎをした。それに応えるように、女性が押していた乳母車の中から、あー、あー、と、あどけない声がする。のぞきこむと、まだ歯も生え揃わない赤ん坊が、懸命に雪花のほうへと手を伸ばしていた。
「ごきげんよう、お嬢ちゃん」
ちいさな乙女にぺこりと挨拶すると、お人形のような顔がうれしそうにほころぶ。
「かわいらしいですね、娘さんですか」
「あら、孫よ孫。お上手ねえ」
ほほほ、と上品に笑う女性は、感心しきりで雪花を見つめる。
「やっぱり翠林の子は品があるわねえ。浮ついた若い子とはわけが違うわ」
「いえ、恐縮です」
穏やかにほほえみつつ、雪花は赤ん坊に伸ばしていた指を離す。名残惜しそうにする赤ん坊に手を振り、女性に頭を下げて、雪花はふたたび通学路を歩き出す。
「ずいぶん懐かれていましたね、雪花さん」
横合いから声をかけてきたのは、香西恋だった。ふたりとも自宅は学校のそばだから、ちょくちょく朝は顔を合わせる。お互い初等部からだから、およそ10年来の顔なじみで、しかも今年は3年ぶりに同じクラスになった。
気心の知れた相手を前にして、ちょっと気の抜けた雪花は表情を弛緩させる。ずっとよそ行きの顔をし続けるのも、楽ではない。
「愛想良くしたら、子どもは喜んでくれるよ」
「そうでしょうか? 子どもは敏感ですから、相手がいい人かどうか見分けていると思いますよ」
「スピリチュアルな話は苦手」
かぶりを振る雪花に、恋は「はあ」とつぶやくきりで、ぴんときていないらしい。
「っていうか、恋さんにはあたしはいい人に見えてるの?」
「雪花さんはたいへん素敵な方だと思いますよ」
ためらいもなく言い切る恋に、今度は雪花は首をひねる番だった。隣を歩く恋を、雪花はふしぎそうに眺める。
翠林女学院のある地区は、市街地から離れた山裾にあたる。閑静な土地柄だが、道路整備はやけに充実しており、歩道はふたりが並んで歩いてもまだ人とすれ違える位の余裕がある。女学院の生徒が危なげなく登下校できるように、近隣の名士がそろって地元政治家に働きかけた、とまことしやかにささやかれているほどだ。その都市伝説の真否はともかくとして、翠林のネームバリューはかくまでこの土地にとどろき渡っている。
その威光を汚さないという役目が、生徒には押しつけられている。雪花も恋も、その圧力によって鋳型にはめ込まれ、立派な翠林生という製品に仕上げられた。通学路を歩く藍色の生徒たちは、似たような育ちで、同じような楚々とした仕草で、けっして大股にダッシュして校門に駆け込んだりはしない。
すくなくとも、対外的にはそんなふりをしている。
「さっきの奥さんもさ、学校でのあたしたちを見たら幻滅するんじゃないかな」
雪花が言うと、恋はふくよかな頬を震わせ、くすくす笑う。
「まさか。雪花さんはいつでも、たいそうかわいらしいですよ」
「恋さんは誰にも同じこと言うから」
「外に向ける笑顔も、内向きのだらけた顔も、どちらも雪花さんです。そういう両面があるのが、いいんですよ」
「それは恋さんの好みだよね」
少女たちを見ているのが好きだ、と公言してはばからないのが、香西恋だ。彼女にとって、翠林という女子校は理想的な空間らしく、ここに通わせてくれるような家に生んでくれた両親に感謝している、といつも口にしている。
「違いますよ」
恋はきっぱりと首を振った。
「私はただ、みなさんのありようを均しく愛しているだけです。それを見ているだけで、私は満足なんですよ」
「草や木に生まれたい、ってやつ?」
恋の口癖をまねてはみるが、雪花にはその感覚はよくわからない。
「その草だか木だかとこうして話してるあたしは、何なんだろ」
「超能力者なのでは?」
「……結局スピリチュアルな話だ」
雪花は大きくあくびをした。もしもほんとうに自分がエスパーなら、長年顔を合わせている相手の気持ちくらい、手に取るようにわかりそうなものなのに。
眠たげな顔の雪花を、相変わらず恋はほほえんで見つめている。小学校のころからすっかり縦にも横にも大きくなった彼女は、しかし、幼いころからずっと同じようなくりっとした目を雪花に向けているばかりだ。
彼女の黒い瞳の奥にあるものを、雪花は見通せたためしがない。
それでも、きっとあと3年弱、高校を卒業するまではこんなふうに何度も、とりとめない雑談を交わすのだろう。
それもたぶん決められた筋道で、けれどその道を並んで歩くのは、ふしぎにしっくりくる。