第23話「話しかけないで、と、電話越しに言われた」
耳に当てたスマートフォンの向こうから、かそけく聞こえる、肌をなでるような細筆の音を、佐藤希玖は息を詰めて聞いている。
電波の彼方で、正座して半紙に向き合うドロシー・アンダーソンの姿を想像しようとする。
まるで、自分の部屋ではなく、ドロシーの自室にいるかのように錯覚する。片方の耳だけに届く情報は、むしろ希玖の想像力をあおり立て、一度も訪れたことのないドロシーの部屋を精細にイメージさせる。
意外と読書が好きだと言っていたし、文庫本や分厚いハードカバーの詰まった本棚があるだろう。テレビは、あるだろうか。気を散らされるのが苦手だから、余分な音を出すものは置かないかもしれない。かわいらしい人形などは、たぶん彼女にそぐわない。無心になれるもの、集中できるもの、ひょっとしたら編み物なんか好きかもしれない。一度も、そんな話をしたことはないけれど。
電機製品は、たぶん部屋には置いていない。スマートフォンだって、ろくに使ったことがないくらいなのだから。
そんなドロシーが、電話をかけてきたのは、三十分ほど前のことだった。
テーブルの上に置いたスマートフォンが震動して、着信を報せた。画面にドロシーの名前が表示されているのを見て、思わず希玖は居住まいを正した。
抱きかかえていた大きなぬいぐるみを脇に置き、クッションの上に座り直し、つけっぱなしだったテレビの音量を下げる。一呼吸置いて、スマートフォンを手に取る。
「もしもし?」
『おきく? ごきげんよう』
切迫感のないドロシーの声を聞いて、希玖はこっそりと胸をなで下ろす。何か緊急の用事かと思ったが、どうやら杞憂のようだった。
となると、どうしてドロシーがわざわざ電話してきたのか気になる。中等部からの仲だが、向こうからかけてきたことはない。
昔は希玖の方から通話やSNSで話しかけてみたものだったが、ドロシーの反応はいつも芳しくなく、習慣にならないままスマホでのやり取りは途切れた
きっと、距離のあるやりとりが苦手なのだろう、と思っていた。
『別に、用って訳でもないんだけど』
「うん」
ドロシーの声には、彼女らしくない迷いが見え隠れする。慣れていないせいだろう。
かといって、希玖が会話をリードするのもそぐわない。テーブルの天板の上で、所在なく指でリズムを刻みながら、ドロシーの答えを待つ。
『ちょっと、声が聞きたく……違うな、そうじゃない』
言い直すなんて、なおさらドロシーらしくなかった。今頃どんな顔をしているのか、スマホを必死に顔に当てて、部屋のどの辺をどんな目で見ているのか、そんな他愛ないことを希玖は想像する。
ドロシーが落ち着きなく目線を動かしたり、髪を弄ったりしているのを思い浮かべると、微笑ましくなる。
そして、ちいさな声で、ドロシーが言う。
『ただ、そばにいてくれれば、それでいいんだけど』
「……会いに来いってこと? それとも来るの?」
『そうじゃなくって』
希玖の困惑気味の言葉を、ドロシーがいくぶん慌てた声で否定する。希玖はこっそり、ひときわ大きく指先でテーブルを鳴らす。ドロシーに呼び出されたなら、いつだって会いに行く覚悟はある。
ドロシーは、言葉に迷っているようにしばらくうめいていたが、やがて、そっと息を吐いた。
『話もしなくていいの。ただ、通話だけつなげて、そこにいてくれたら』
「何それ」
『いま、ちょっと、部活の課題をやろうと思ってたんだけど。なんだか、集中できなくて。人の気配でもあった方がいいのかな、と思ってさ』
「課題なんてあるんだ? 書道部」
『うん。昨日の部活で、いまいちうまくいかなくて。次回に持ち越せばいいって言われたんだけど、なんか納得できなくて』
「で、家で?」
希玖の脳裏には、なんとなく思い浮かぶものがある。美礼と薫子が話していた、作業なんとかいうのだ。ネットで互いの部屋をつないで、おしゃべりしたりしながら漫画を描くらしい。その途中で、たまに、両者が無言になることもあるという。
相手が同じ作業をして、生活している気配がある。それが大事なのだ、と美礼は言っていた。
いま、ドロシーは希玖の気配を感じようとしているのだろう。自室に半紙と下敷きを広げ、硯に墨をためて、筆を下ろす瞬間を待ちながら。
『何もしなくていいの。励ましも景気づけもいらない』
話しかけないで、と、電話越しに言われた。
分かった、と、うなずき、希玖はそっとテーブルにスマートフォンを置く。気配を感じてもらうだけなら、それでいいだろう、と思ったのだ。
『ちょっと、おきく。ちゃんと電話持っててよ』
「えー、バレてる?」
おどけて苦笑しつつも、希玖はスマートフォンを持ち直して、耳に近づける。
『そこにいる?』
「いるよ」
不安げに強がるようなドロシーの声を聞いて、なんだか希玖は、夜中のトイレで幼児のお守りについてきた大人の気分だった。電話の向こう側で、ドロシーはどんな顔をしているのだろう。いつものように自信たっぷりなのか、それとも、何か口に出さない屈託を抱えているのか。
希玖は、かすかな音だけで伝わってくるドロシーの仕草の気配を、もどかしくつかまえる。彼女がそっと筆を手に取る、衣擦れの音が、かすかなノイズと入り混じった。
すっ、すっ、と、いつしか、紙の上を筆が走る音が聞こえてくる。
ドロシーが、一字一字、丹念に手本を書き写していく姿が、聴覚を通り越して目に浮かぶ。彼女の指が、瞬間ごとに力加減を操りながら、繊細な動きを繰り返す。
止め、跳ね、払い。
わずかな呼気が、受話器に届く。ドロシーがすぐそこにいるように思える。
いつもクラスにいるときのように、ドロシーの隣に座って、ほんとうなら見えるはずもない彼女の書字を見守る。
希玖が彼女のノートで知っているドロシーの字は、彼女の気の強い性格と対照的に、堅実でこまやかだ。書道でも、それは同じだろう。
半紙に綴られる文字と、それを直視するドロシーの姿までが、見えてくる。正座して、背筋を伸ばして、一心に書字と向かい合う。
殺風景な部屋の空気に、筆の走る音が跳ね返る。角張った家具の鋭さに沿うように、几帳面に角を曲げ、力強く最後の一画を払う。
そういう丹念な仕事を繰り返した先にあるものを、ドロシーも、希玖も、探し求めていた。
頭の横に垂れかかる髪を、ドロシーがそっとかき上げた。
耳元に届く音のことをも、希玖はつかのま忘れた。
『……できた』
ドロシーの声をしおに、希玖は現実に引き戻される。視界には、ファンシーな色のカーテン。音のしないテレビの中で、芸能人が口パクだけのグルメレポートをしている。
希玖は一瞬、呆然とする。まだ、目の前に、ドロシーの仕上げた作品が浮かんでいるような気がしたのだ。
『ありがとう、おきく。会心の出来』
一瞬、希玖は力が抜けて、スマホを取り落としかけた。受話器の向こうで、不審げなドロシーの声がする。
あたふたとスマホを耳元に戻すと、希玖は微笑んで言う。
「聞いてたよドロシー。よかった」
『やっぱり、誰かそばにいてくれた方がいいみたい。自分ひとりで、何でもしてるような気がしてたけど』
「わたしが役に立てたんなら、よかったよ」
『うん……』
ふつうの会話に戻るなり、ドロシーの気配はどことなく和らいだような気がする。緊張がほぐれたようでもあり、支えを失って不安定になっているようにも感じられた。
『実は、ここ何日か、ちょっと変な気分で』
揺らいだ心がそのままなだれ込むみたいな、ドロシーの声だった。
『具合が悪いとか、厭なことあったとか、そういうわけじゃないんだけど』
「歌のこと? 鶫さんの」
『たぶん、それがきっかけ……自分の言葉が歌になるなんて、やっぱり変な感じで』
「こないだは、あんなに喜んでたのに?」
『いろいろあるの。複雑なんだから、乙女心は』
ドロシーはそう言いながら、半ば自嘲気味に笑った。希玖は笑わない。ドロシーだって、希玖が知る限り、立派な大和撫子だ。か弱くたおやかなだけでない、凛々しく強い花。
ふう、と、ドロシーがちいさく吐息をついた。
『だけど、たぶん吹っ切れた。おきくがそこにいてくれたおかげ』
そう大げさな出来事だったわけではない。喧嘩もしなかったし、口論にさえならなかった。学校ではいつも通りに話していたし、ふたりの態度はさして変わらなかった。
それでも、ドロシーにとってはひとつ大きな進歩があって、希玖はそこに立ち会った。
互いがよかったと思っているなら、きっと、正しいのだ。
ベッドの上の目覚まし時計に目をやると、電話がかかってきてからもう2時間も経過していてちょっと驚いた。濃密な沈黙に支配された中では、時間なんか気にならなかった。長いこと集中し続けて、ドロシーの方も疲れていることだろう。
だけれど、ドロシーはそんな様子をすこしも感じさせずに、言葉を続けた。
『ね、おきく』
「なあに?」
ぼて、と、ぬいぐるみの上に倒れ込みながら、希玖は問い返す。リモコンを操作してテレビの電源を切る。
『このまま、喋り終わるのって、その、なんていうか……』
「もったいない?」
『それ』
嬉しそうにドロシーが言う。希玖は、その声の響きを、ずっと待ち望んでいたような気さえする。
それから、ふたりは長い話をした。さして内容のない、明日には忘れているような、何ら大切じゃない話を、いつまでも、いつまでも。




