第228話「公式の証明をひとつ覚えたらたくさん応用できたでしょ?」
ノートを広げたテーブルの向こうから、飯塚流季がこちらを見つめている。つり上がり気味の彼女の目を真っ正面から受け止めていると、すこし腰が引ける。彼女はサッカー部のマネージャーで、マネージャーというわりに部員の誰よりも活発にグラウンドを動き回り、声を出し、その迫力で上級生さえ恐れさせているという。八嶋妙も、たまに、部活中の流季を見かけることもあるが、たいていは真っ先に彼女の姿を見つけることができる。
そして流季は、遠慮会釈なく妙の額に手を伸ばし、ヘアピンでまとめた前髪に触れる。
「妙さん、なんか雰囲気変わった?」
「そう?」
とっさに妙が動けないでいるうちに、流季は、妙の前髪をちょっと指先で持ち上げて、すぐに離した。きょろり、と、ビー玉が転がるみたいに瞳が動いて、テーブルの角あたりを見つめる。きつかった表情がつかのま和らぎ、ぐっと穏やかな印象に変わる。
その変容ぶりが、妙には、すこしうらやましい。
「別に髪型とか変えてないよね」
「そういうの、あんまり弄らないから」
「だよね。ここ来ても、いつもおなじ席だし」
流季はそういって、手にしたシャーペンの尻でノートの端をつつき、ちょこちょことページを持ち上げたりしている。妙は申し訳ない気分で、改めてノートに目線を落とした。
いつもの喫茶店、妙は妹の塾が終わるのを待ち、流季は暇つぶしにそれにつきあう。そういう普段通りの放課後だけれど、今日はすこし違う。
期末試験前、いつもはやる気のない妙も多少尻に火がついていた。そして、授業をそつなくこなす流季は妙よりずっと成績がいい。妙は、とくに壊滅的な理系科目をフォローしてもらうつもりで、一緒に試験勉強をしようと提案したのだ。
ガミガミうるさくて辟易させられたものの、流季の教え方はわかりやすくて、なによりモチベーションをあげるのがうまかった。褒めるべきところはきちんと評価してくれるし、ちいさな目標をすこしずつ置いてもらえたことで達成感も得られた。これが成績に結びつけば、いうことはなしだ。
単元の復習が一区切りついたところで、ふたりは飲み物のお代わりをしつつ、とろとろと気怠い雑談に興じていた。流季が妙の髪に触れたのは、そんなときだった。
「じゃあ何だろ。私の気のせいかな」
つぶやきながら、流季は手元のホットティーを口にする。
「きっとそうだよ。私、自分がそんなに変わるなんて思わないし」
「そんなことないよ。人って、一瞬で別人になるんだから」
妙の安易な相づちをなかば遮るように、流季の声が発せられた。んぐ、と、妙は、危うく指先のコーヒーカップを取り落としそうになる。
流季は、明るい声で続けた。
「サッカーでも、ちょっと一声アドバイスするだけで、動きがまるっきり変わることあるしね。すこし目線が変われば、視界が変わる。ほかのプレイヤーが見えたら、動き出しが早くなる。一歩前に出れば、ボールに追いつける。ロストするはずのボールをマイボールにできたり、蹴る前に一呼吸置いて正確なパスが出せる。どこかのタイミングが改善すれば、これだけの現象が劇的に起こる」
「……なるほど」
「さっきだって、公式の証明をひとつ覚えたらたくさん応用できたでしょ? ほんのちいさなことで、歯車がかみ合ったみたいに、いろんなことが変わる」
にこり、と流季は目を細める。テーブルの脇に置かれていたシュガーポットをちょっと引き寄せて、スプーン半分だけ、紅茶に入れる。白い粒は、夕陽の色の液体にくるくると溶けて、あっという間に消えていく。見た目には、一瞬前と区別がつかない。
流季は紅茶を傾けて、一口。そして、満足げにうなずいた。
「そういうの、妙さんにもきっと起きると思う」
「……そうかなあ」
「妙さん、インディーズバンドとか好きなんだよね。曲聴いて、人生変わりそう、とか思ったりしない?」
もちろん、流季は何も知らない。
だから彼女のいうことは、教条的な決まり文句のようなもので、とくに深い意図があっていったわけではないはずだ。ただ、好きなこと、深くのめり込むことなら、人格や人生に変化を及ぼす可能性がある。それだけの意味しかない、ただの疑問だ。
けれど、その他愛ないことばが、妙の心をぎゅっときつくつかんでしまった。
妙は無言で首を振り、湯気の立つカフェラテをぐっとあおった。つかのま、戸惑ったような流季の視線を感じたが、それでも何もいわない。息をつき、カップをテーブルに戻し、妙は視線をノートに戻す。ぐちゃぐちゃに式と図を書き込んだ数学のノートが、妙の目の前に広げられたまま、まるで博物館の展示品みたいにしずかにたたずんでいる。
数学の問題は、理屈に従っていけば解ける。数値や公式を当てはめれば、トップチームのパスワークのように、自然と結果につながる。流季はそういった。
ノートを見つめて、妙は、なんだか、涙が出そうだった。
「……私、何か地雷踏んだ?」
威勢の良かった流季の声が、一転して静かになる。妙を爆発させないように、おそるおそる触れてくるような態度だった。目つきまで、か弱くなって、こちらを怖がっているふうに見えた。彼女には、妙の内面を動かす方程式が見えていない。
妙だって、どう説明すればいいかわからないのだ。だから、黙り込むしかない。
妙の脳裏に浮かぶのは、夜の路上で泣きじゃくっていた宇都宮凛。
妙の部屋で、叶わぬ恋のやるせなさを吐き出していた宇都宮凛。
そして、真木歩と手を絡めてはしゃぐ、宇都宮凛。
あの夜を境に、彼女は別人になってしまった、と思う。
あんなことが自分の身に起きるなんて、想像もつかない。
「えっと……」
困惑し、つぶやく流季の表情を、つかのまガラスの外の街の灯が青く照らす。
「あ、そういえば。青衣さん」
ぽん、と流季が出した名前に、妙は顔を上げた。
「なんだか、中等部の子にお熱なんでしょ? ぜんぜんそういうイメージなかったのに、変わるもんだよね。妙さん、例の子、見たことある?」
「……写メは回ってきた」
妙の声に、あからさまに流季はほっとした表情を見せる。そのことに、すこし申し訳なくなる。妙自身、流季を不安にさせたかったわけじゃない。
「美人だよね、すごく」
妙の短いコメントに、流季は苦笑する。
「ま、ちょっと加工きつめだったと思うけどね。でも、同級生にも人気だろうね。あれで中1だもんねえ」
「どうするのかな、青衣さん。探してるみたいだけど」
「まあ、写メまで来たら見つかったようなもんだし。会いに行って、それから先は、おふたりの気持ち次第だよね」
「お見合い?」
噴き出して笑う妙を見て、流季もなんだかやけにおかしそうに笑った。シャーペンが坂道を転がるようにノートの上を滑り、カップのなかの飲み物が揺れた。
笑い声が胸を揺すって、心の底にわだかまったものがすこしずつほぐれていく。
「あ」
と、ふいに流季が笑いを止め、まじまじと妙を見つめる。額のあたりに、じっと上目遣いの目線を向ける流季の表情は、真剣そのもののようで、どこか背筋の力が抜けたような感じでもある。
いつも鋭かった目が、丸く、きゅっと見開かれていた。
「妙さん。ちょっとだけ、おでこが柔らかくなった」
「……何それ?」
「なんとなく」
ちょん、と、額の上の前髪の下に、指先を潜り込ませるみたいにして、流季は微笑した。
そして指の背で、前髪を持ち上げる。
「でも、おでこもっと出した方がかわいいかもね、妙さん」
「……そうかな?」
自分の前髪に不満を抱いたことなんてなかった。画面を見るときに邪魔にならなければ良かったから、長くなった髪を適当に持ち上げて、留めて、それでよしにしていた。
でも、流季がいうなら、そうなのかもしれない。前髪をアップにしたり、逆に、思い切って切りそろえてしまってもいい。髪型ひとつでも、まだ、いろんな可能性がある。
額に触れる流季の指に、下から触れた。
「また今度、試してみるよ。その気になったら」
「そゆこという子って、絶対何もしないよね……」
「それでもいいじゃない」
たぶん、変わらないのだってひとつの選択だ。それはそれでいい。
大切なのは、その選択肢を教えてくれる、誰かがいることだ。
そっと手を下ろして、妙は甘くしすぎたカフェラテを、最後まで飲み干した。




