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第223話「胸がときめく、っていうか、心が騒ぐ、っていうか」

「恋患い」


 いささか古風な響きのあるそのことばを、香西(こうざい)(れん)は、鸚鵡返しにつぶやいた。


「そうなの」


 放課後の喫茶店、恋の前に腰を下ろしてアンニュイにつぶやく光原(みつはら)青衣(あおい)は、物憂げに目を伏せる。いつもの不健康そうなメイクも相まって、なんだか、不治の病に冒された少女のように思えた。

 彼女は手元のホットコーヒーをあおり、はう、と、重たいため息をついた。


 学院のそば、恋の家にほど近いその喫茶店は、そのいかめしい外装と頑固な店主のイメージが相まって、翠林の生徒はあまり寄りつかない。しかし、実は店主の妻は翠林の卒業生で、恋の祖母の教え子でもある。その縁で、恋はこの店にはいくぶん馴染みがあった。

 そういうわけで、彼女は、青衣からの相談をこの店の奥まった席で受けることにした。内緒話にはもってこいだ。


 とはいえ、青衣の口から、そんな物珍しい単語を聞かされるとは、思ってもみなかったけれど。


「知っている人なのですか?」

「ううん。ぜんぜん。ちょっと見かけただけで、話もしてない」

「どこで?」

「こないだの文化祭。通りすがりに見かけて、こう、きゅん、と。胸がときめく、っていうか、心が騒ぐ、っていうか」


 わざとらしい擬音語を発して、青衣は左胸を両手で押さえる。そんな浮ついた言葉遣いで気持ちを示す彼女は、なるほど、いつもの青衣らしくなくて、何か患っているというのは適切な表現だな、と恋は思う。

 恋のほうは、冷静に青衣の行動を観察している。お化け屋敷か吊り橋のようなもので、隣にいる誰かが高ぶっているときは、自分は逆に冷静になるものだ。


 大袈裟なくらいの仕草で胸に手を押しつける彼女は、そこからくずおれるみたいに、顔を伏せた。テーブルの上の砂糖壺を見つめるような瞳は、静かな熱に抗しきれないように揺れている。

 ファンデーションで守られた肌が、ほんのりと赤い。青衣の頬は、すこし紅潮するだけで、ひどい高熱を発しているように見える。


「それで、どうしてわたしに?」

「恋さんなら、知ってるかな、って思って。学院の生徒のことならすごく詳しそう」

「別にそういうタイプではないのですが」


 生徒たちの行動や関係を観察するのは好きだが、彼女らの個人情報に詳しいわけではない。同じクラスならともかく、たまたま見かけただけの対象を根ほり葉ほり探るのは、さすがに彼女には無理だ。


「って、その人、翠林の生徒なんですか?」


 驚きで恋の声が裏返る。とっさに口元を押さえた彼女は、動揺を押し隠すように、もう片方の手でコーヒーカップの取っ手をぎゅっと握る。一瞬だけその体勢を保った後、恋は、そっと口にコーヒーを持って行った。

 うっかりすると、よけいなことを口走りそうだった。熱で自分の声を抑制しようとするように、恋はコーヒーを流し込む。まだ冷めていないコーヒーは、彼女の舌をぎゅっと刺激し、彼女はつい顔をしかめる。


 青衣は、そんな恋の態度にかまわず、うなずく。


「うん……中等部の制服だった」

「……年下ですか。なるほど」


 コースターの上に戻した恋のカップが、ちょっと震える。青衣はその音で、目を覚ましたみたいに顔を上げた。


「何がなるほどなの」

「なんとなく。子どもに好かれてますし、年下のほうが好きなのか、と」

「それじゃ私がちっちゃい子を籠絡してるみたいじゃないの」

「そこまではいっていませんよ。それとも心当たりがあるのですか?」


 苦笑しつつ、恋は両手でコーヒーカップを包むように握る。自分の指と指が、カップの向こう側ですこしだけ触れた。

 手の中で、コーヒーの水面に灯りがうっすらと輪を描く。外から内に、内から外に続く波に、恋はつかのま見とれる。


「ひと目見ただけなんだけど、こう、目が離せなくなって。中学生なのに、すごく背が高くて、手も足もほっそりしてて、まだ成長が追いついてないんだろうね。肘のあたりが、すごく骨っぽくて、強そうなのに折れそうで、それが危なっかしくて」


 会話の隙間を埋めるみたいに、青衣の惚気がテーブルの上を流れていく。参考になりそうでならないそのことばは、彼女が自分の想いを吐き出すために紡いでいるもので、つまりは蜘蛛の糸みたいなものだ。何かを捕まえるためのものじゃない。


 こうして喋っているときが、一番幸せなのだろう、と、恋はすこし思う。


「顔は覚えてないのですか?」

「美人だった。目は細くて、眉毛も細くて、鼻筋はまっすぐに通ってて、あと耳が小さかった」

「……よく見てますね。ちょっと会ったきりなんでしょう?」

「まるで時間が止まったような気分だったわ」


 うっとりとつぶやいている青衣の面差しは、どこか見えない遠くを向いているようだった。うろんなようでいて、目だけがひどく据わって、架空の何かを凝視しているかのよう。


 それは、独特の世界観に浸っている青衣としては、当然の振る舞いなのかもしれない。教室にいても、どこにいても、いつでもゴシックな服をまとっているみたいに、世界とかすかな隙間を保っている彼女。


「……でも」


 両手で抱えたカップに息を吹きかけて、恋は、コーヒーを口にする。


「それだけの手がかりでは、たぶん見つけられませんね」

「……そうよね。私のイメージの中では、いつでも手が届きそうな気がするのに」


 つぶやく青衣の表情が、コーヒーの表面につかのま映って、揺れた気がした。その瞬間だけ、彼女は現実に戻ってきたようにも見えた。いつも覆い隠している彼女の素顔を、垣間見たような。

 舌の上のコーヒーが、じんわりと苦味を残す。この世界の味わいというものは、得てしてそんなものなのかもしれなかった。


 かたん、と、恋はカップを置いた。まっすぐ正面の青衣を見つめて、告げる。


「まあ、ひょんなことで出会えるかもしれませんよ。この先」

「だといいなあ」


 あいまいな口調で、吐息のように青衣はつぶやいた。その瞬間には、もう、彼女は恋を見ていない。けっきょく、彼女は最初から恋のことなど頼りにしていなくて、ただことばを紡いで、記憶をたぐり寄せたかっただけなのかもしれない。


 そういう立場に甘んずるのも、嫌いではない。恋はどうせ、この世界からわずかに外れた場所で、関係性を観測しているのが好みなのだから。

 最後には、蜘蛛の巣にも絡め取られず、森の奥に消えていく半透明の妖精だ。


 でも。


「こんど、いっしょに中等部まで出かけてみます?」


 どうしてか、自然と、恋はつぶやいていた。

 その響きは、つかのま青衣の表情を揺らした。驚きと、途惑いと、かすかな喜びが彼女の唇の端で、ちいさな笑みを形作る。ぴくりと震えた頬は、まるで、白いファンデーションにひびを入れたみたいだった。


 ふたりの間に、ふんわりと香ばしい湯気が立つ。

 そして恋は、目を細め、青衣の答えを待つ。

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