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第222話「足、出して。履かせてあげるから」

「くしゅん」


 演劇部の倉庫に足を踏み入れて、木曽(きそ)穂波(ほなみ)はちいさくくしゃみをした。

 それなりに人の出入りも多く、空気が入れ替わっているはずなのに、この部屋はいつも埃っぽく感じる。実際に空気が汚れているのではなく、単なるイメージや、あるいは条件反射で鼻がくすぐったくなるだけなのかもしれない。そういえば、穂波の父親はいつも出かけるときにくしゃみしているな、と、何となく思い出す。


「そこの、右側のいちばん奥のやつ」


 後ろから入ってきた山下(やました)満流(みちる)が、穂波の肩越しに天井を指さす。むき出しになった棒型の蛍光灯は点灯していない。よく見れば、管の端が真っ黒になっていて、いかにも年季が入っているのがわかる。

 穂波がここに呼ばれたのは、その交換の手伝いのためだ。今日の放課後になって、いきなり点灯しなくなったのだという。

 とはいえ、大道具を収納する倉庫の天井はかなり高く、穂波でも手は届きそうにない。


「脚立でもないとつらいね……でも、立てるには狭いか」

「こないだ片づけしたときに気づけばよかったんだけどね」

「往々にして間が悪いもんだよね……」


 先日の文化祭の公演にあたっては、この倉庫も大活躍だった。セットや衣装やその他諸々がひっきりなしに出入りし、常に騒然として目まぐるしかった、と満流は語る。

 公演が無事に終わって、ついでとばかりに大掃除を敢行し、来年以降も使いそうな道具をどさどさと倉庫の奥にしまい込んで、ほっと一息ついた今日になって、蛍光灯が切れた、というわけらしい。


「だいたい、何も私たちの代で寿命が来なくてもいいと思わない?」


 満流は天井を見上げながらぶつくさ不平をこぼす。たしかに今時のLEDなら寿命も長いし、しかもこんな倉庫みたいな場所ではそう長時間は点灯しないから、10年ぐらいは平気で維持できそうなものだ。それが、たまたま満流が1年生のときに、というのは、運が悪いとしかいいようがない。

 それは穂波にもわかるが、しかし、それは詮無いことだろう。


「ま、けっきょく誰かが交換しなくちゃいけないんだから」

「別の誰かが文句いうだけ、ってことね」


 かぶりを振った満流は、あきらめたような顔つきで、蛍光灯の下まで歩いていって、あたりに散乱した荷物をどかし始めた。こういうときの決断は、満流のほうが早い。穂波は彼女の横にしゃがみこんで、大きな段ボールを引きずる。意外と軽い。


「……そういえば、ちゃんといってなかった気がする。お疲れさま、満流さん」


 ふと、ついでのように、ことばが穂波の口をついて出た。小道具の入ったケースを棚に押し込んでいた満流は、驚いた顔で振り返る。


「ありがと」

「舞台、よかったと思うよ。わたしはあんまり、難しいことはよくわからないけど」

「そういうので充分よ。小難しくて理屈っぽい礼賛をくだくだいう人とかいるけど、私はああいうの、うれしくないし。めんどくさいわよね」


 すました顔で告げた満流に、穂波は苦笑を返す。満流のそういう態度も、それはそれでめんどくさい類なのではないだろうか。


「でも、あんなに毎日練習して、本番は1時間もなくて、かけることばはほんの一瞬……って、ちょっと寂しいよね」

「陸上も似たようなものでしょう? そっちの本番なんてそれこそ数秒ってとこじゃない」

「うん……」

「私から見れば、穂波さんのほうがよほどすごいし、ずっと寂しいわ。たったひとりで競技に向かい合う気持ち、想像するだけで心が冷えてしまう」


 つぶやいて、満流はちいさく息をついた。蛍光灯の下に両足を広げて立つ。足下のスペースは、踏み台なり脚立なりの置き場所を確保するには充分だ。

 穂波は倉庫の隅から、脚立を抱えてきて、そこに広げた。かちり、と、ロックをはめる音が、やけに耳に響く。


 あらためて見上げると、倉庫の天井近くは、ぞっとするほど暗い。

 そういえば、穂波は体育館に入るときに靴を脱いだきりだ。上履きもなく、ソックスでそのまま床を踏んでいるから、地面の冷えが布越しにじわじわと伝わってくる。足の指先が、麻痺したみたいに思えた。


 暗くて狭い、視覚の制限される空間では、身体感覚がいやでも意識される。

 そんなとき、穂波は、つかのま、自分がひどく鈍重でみっともない生き物のように思われる。

 自分が、自分であることが、怖くなる。


「……穂波さん」


 自分を呼ぶ声に、はっと我に返る。つかのまの物思いを振り払うように、満流のほうに向き直る。


 満流の手のなかには、大きな毛皮の靴。


「裸足だと危ないよ。これ、使う?」


 うやうやしく、まるでガラスの靴を捧げ持つ従者みたいに、満流は穂波のほうに手をさしのべてきた。満流の目つきがあんまり真剣なので、穂波は、ちょっとおかしくなる。

 毛皮の靴は、何年も放置されていたものとおぼしく、だいぶ毛羽立っていて色もはげている。底もすり減っているかもしれない。そもそも、たぶん舞台用に作られた靴だから、普段使いに適するかどうかわからない。


「それ、大丈夫なの?」

「ないよりましよ。いきなり底が抜けたりはしない……と思うけど」


 満流はつぶやいて、肩をすくめた。


「私の靴、貸せたらよかったのだけど。たぶんサイズが合わないわよね」

「……そだね」


 苦笑を返した穂波は、満流のほうに手を伸ばす。と、彼女は首を振って、穂波の足に目配せした。


「足、出して。履かせてあげるから」


「……うん」


 一瞬だけ迷って、穂波はうなずき、立ったまま満流のほうに足を差し出した。

 満流は、その場にひざをつく。ふだん以上に高い位置から、穂波は満流の黒髪に覆われた頭部を見つめる。

 何か非現実的な背徳感が、穂波の胸をざわつかせた。跪いた相手を見下ろしていると、いつでも彼女を好きにできてしまうように錯覚させられる。ちょっと足を突き出すだけで、満流は、為す術もなく倒れてしまうだろう。

 こんなふうに満流の姿を見てしまうのは、何か、とても悪いことをしている気分だった。


 細い両手が、まるで、壊れ物を注意深く扱う職人のように、足に靴を履かせていく。

 見た目より縫製はしっかりしていて、すこし引っ張ったくらいでは壊れなさそうだった。毛皮に包まれた足は、ほんのりとした温もりを感じる。

 穂波がいつも履いている運動靴とは、もちろん軽さも動きやすさも違う。けれど、そんなぎこちない感触が、かえって穂波には好ましく思えた。


 厚い靴底が、すこしだけ穂波の背丈を底上げしてくれる。

 それだけで、彼女はまるで、この世とは違う舞台に立ったような気持ちになる。


 両足に、毛皮の靴を履いて、改めて穂波は両足で床を踏みしめた。


「これ、何の衣装?」


 満流は立ち上がりながら答える。


「3年前のやつだって聞いた。ホビットだかドワーフだかの靴」

「じゃあ、妖精を気取れるね」

「気をつけてよ。空飛べるわけじゃないんだから」


 満流の軽口に、穂波は笑い返す。空なんて飛ぶ必要はない。なんとなれば、すでに、彼女の気持ちは何ミリか宙に浮いている。


 穂波は、妖精の靴で脚立に上った。

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