第220話「大丈夫よ。怒ってないし」
近衛薫子は、文化祭のあと、ずっとむくれている。教室でも口数は少ないし、放課後はさっさと帰ってしまって、いつものように街角の写真を撮ったりもしていない。授業はちゃんと受けているし、りんとした佇まいは変わらないのだけれど、それだけに、静かな緊張感が張りつめているのが感じられた。
「いいかげん、機嫌直せば?」
朝の教室で、内藤叶音は薫子に話しかける。薫子は、まっすぐ切りそろえた前髪の下から、じっと叶音を見上げる。
「別に怒ってないわ」
「怒ってる子は絶対それいう」
ふう、と叶音は嘆息し、彼女は薫子の席の前にしゃがみこむ。下からのぞく薫子の表情は、普段よりいっそう迫力があって、ちょっと怖い。
叶音は、机の上に両手を載せて、カラフルなネイルで彩った指をちょこちょこと揺らす。文化祭の後、デコり直した新作は、秋から冬にかけてのクールな気配を象徴するようにブルーとホワイトを基調にし、雪のように点々と散らしたパールが目に映える。
が、薫子はそんな叶音の自慢の一品を見もしない。
「なら、ほんとうに怒っていないときは、どうやって伝えればいいのよ」
「……そういう理屈こねるところが、怒ってるってことでしょ」
気持ちの話をしているときに、そうやって理屈っぽい話をされては、叶音だってちょっとうんざりしてしまう。
机に顎をひっかけるように載せ、頭を左右に揺らしながら、叶音は薫子につぶやくようにいう。
「茶道部のほうに行けなかったのは、謝ったじゃん」
「それは、別にもういいの」
あまり活動していないが、いちおう薫子は茶道部員で、文化祭では部室で来客をもてなしていたという。翠林の文化祭にくるような人々を相手にするとあって、所作や調度には相当気を使ったそうだが、薫子のことだから無難にこなしたのだろう、と叶音は想像している。
「叶音さんが来ても、浮くだけだもの。来られないのは仕方ない。そういう話だったでしょう」
その茶道部の部室に叶音が訪れなかったのも、薫子のいうとおりの理由だ。作法も知らず、髪を染めたギャルふうの生徒の存在を快く思わない客人やOGも多いだろう。叶音自身は気にしないが、薫子の面子をつぶしたくはない、と思って、遠慮したのだった。
それは、薫子自身も納得しているらしい。
「じゃああれ? 演劇、そんなに気にくわなかった?」
叶音の問いに、一瞬、薫子は口ごもる。
「……二日も三日も引きずるほどじゃないわ」
ということは、どうやら満足のいく出来ではなかったらしい。
文化祭における演劇部の新作公演は、全体的には好評だったという。1年撫子組には縁の深い作品でもあるため、クラスの多くの生徒が観に行った結果、終了後のクラスメートの会話はその話で持ちきりだった。
熱演した山下満流は、教室の隅でぼんやり外を眺めている。まだ舞台の熱が抜けていないかのように、じんわりと頬が赤く見えた。
原作者、という名目の梅宮美礼は、机に突っ伏して寝ていた。彼女にとっては、過去の作品よりも、漫研の部誌に載せた新作のほうが大事だったのかもしれない。ちなみに部誌のほうはすでにプレミアがついているという噂だ。
「なんか文句あるなら、吐き出したほうがよくない?」
「……解釈違いの話は、しても泥沼だもの」
薫子は首を振り、ちらり、と満流の横顔を見やった。
「独自の作品としては、ちゃんと成り立っていたと思うし、役者の方々も見事だったわ。ケチを付けるのも野暮でしょう」
「まあ、かおさんがいいなら、それでいいけど」
つぶやく叶音の声には、困惑が混じる。演劇の話でも、茶道部の話でもないなら、叶音には思い当たるフシがない。
それとも、彼女の知らないどこかで、別の出来事が起きたのだろうか。何しろ薫子のことだ、面倒な家のしがらみが、文化祭での来客をきっかけに噴き出していないとも限らない。
薫子の怜悧な無表情の裏側には、いろいろと押し殺しているものがある。たぶん、クラスメートやほかの友達にはおくびにも出さないようなやっかいごとだ。
そこに叶音が踏み込んでいいものか、迷ってしまう。叶音のような、いい加減な放蕩者には手の出せない世界かもしれないのだから。
困り顔で口を閉ざした叶音を、薫子が、じっと見つめる。上から見下ろされると、やっぱり、よけいに威圧感がある。基本的に薫子は、自分のなかの正義を疑わないたぐいの子だ。明朗だけれど、容赦も遠慮も知らない。
そんな彼女の無言の圧力に、叶音はびくりと背筋をふるわせる。
「……え。あたし、何か悪いことした?」
「叶音さんのせいでは、ないけど」
ふう、と、薫子は細く長い息をついた。肩を落とし、かるく顔を伏せた彼女の表情は、ようやくすこしばかり和らいで、いつもの薫子に近づいた気がした。つり上がり気味だった細い眉が垂れ下がって、顔全体が手のひらのなかで丸く収まるような、落ち着きがある。
「私がひとりで怒っていただけなの。叶音さんをそんなに不安にさせているなら、ちょっと反省しないといけないわね」
けっきょく怒っていたのか、と叶音は内心であきれてしまうが、それをいったら今度こそ薫子を逆上させてしまいそうだった。
「……で、何だったわけ?」
「シャッターチャンスを、ね。後夜祭で」
翠林の文化祭の終わりにも、キャンプファイアよろしく廃材を焼いたり、フォークダンスを踊ったり、といったありがちなイベントが行われる。礼拝堂で聖歌を朗唱するという公式行事もあるのだが、そちらはほとんど人が来ないという。ちなみにフォークダンスはもちろん女子ばかりが二手に分かれて踊りあうのだが、内と外が勝手に入れ替わるのでなかなか混沌とするらしい。
らしい、というのは、叶音が後夜祭の前に帰ってしまったからだ。
「なんかおもしろいことあったの? 残っとけばよかったかな」
「……ううん。ただ……」
起き上がり小法師よろしく頭を揺らしていた叶音に、薫子は、じっと目を向ける。
見上げると、彼女の瞳にずっと映っているのは、ただ叶音の表情だけだ。
「叶音さんといっしょに、写真、撮れなかったから」
「……ああ」
「炎の前の叶音さんとか、夜景の叶音さんとか、意外とふだんは撮ってないもの。絵になると思ったのよね」
そして、ため息混じりに、つぶやく。
「なのに……叶音さん、知らないうちに帰っちゃったから。携帯見たのも、全部終わった後で」
「……ごめん」
演劇を見終わった後、茶道部の片づけに向かった薫子と別れて、叶音はしばらく手持ちぶさただった。撫子組の展示の片づけを手伝い、日が暮れて、それから薫子を探したのだけれど、どうやらすれ違いになったらしく見つけられなかった。
だから、連絡だけ残して、帰ってしまったのだ。きっと彼女は彼女なりのつきあいもあるだろう、と思って。
邪魔をしたら悪い、と思って。
薫子に邪魔にされるなんて、ありえないのに。
一瞬、叶音は、自分の表情が泣きそうに崩れるのを自覚する。
薫子は、そんな彼女の頭をぎゅっとつかむ。今度こそ、捕まえようとするみたいに。
「肝心なときに及び腰よね、叶音さんは、ほんとうに」
「……うう」
唇をゆがめ、ことばを見つけられず、叶音は眉をひそめる。
そんな彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる薫子の手のひらは、なんだか、きかんぼうの子どもをしつける母親みたいだった。
そして、薫子はひとこと、告げた。
「大丈夫よ。怒ってないし」




