第20話「ドロシーさん、大人の階段上っちゃったの?」
「いいなあ、おきく。あたし、まだ聴いてないんだよ。自分の名前の曲なのに」
学校からの帰り道、暮れなずむ坂道を、佐藤希玖とドロシー・アンダーソンはいっしょに下っていく。中等部の頃から、いっしょに帰ることの多かったふたりは、自然と同じペースで歩いている。
両手でぶら下げたカバンを不満げに左右に振りながら、ドロシーは希玖を横目で見つめる。
「ね、ちょっと唄ってみて」
「えぇ……? それは恥ずかしいよ」
「いいじゃない、一小節だけでもさ」
じりじりと半歩ずつにじり寄って、ドロシーは希玖の胸元に顔を近づけてくる。上目遣いで、甘えてくるような彼女の顔つきが間近に迫ると、希玖はちょっとたじろいでしまう。
希玖の顔をいたずらっぽく見つめて、ドロシーはさらにプレッシャーをかけてくる。
「ずるい、おきく」
「そんなこと言われても……」
「だって、実質、あたしの歌みたいなものなのにさ」
さっきまで、ドロシーは津島鶫が『ドロシー』を作り始める経緯を希玖に話してくれた。
放課後の教室に、鶫がいたこと。ギターケースを抱えた彼女の存在感。鶫の語った、音楽との関わり方。
それに導かれるように、思わずドロシーの発した詩的な言葉が、鶫のインスピレーションを誘った瞬間。
ドロシーがそれを語るときの面差しは気恥ずかしげにうつむいていたけれど、声は対照的に、強い自負にあふれていた。
たまたまの思いつきでも、それが鶫に影響を与えることができたのだ、と、彼女は幸せそうに語った。
そして今も、ドロシーの声は弾んでいる。
「鶫さん、あたしにはぜんぜん聴かせてくれないんだよ。部室にまで行ったのに」
「行ったことあるの?」
「歓迎してくれた。コーヒーも出してもらえたし」
やっぱりコーヒーなのか、と、希玖は内心で笑う。軽音部の面々がコーヒー党なことは、希玖も鶫から聞いて知っていた。
ドロシーは背筋を伸ばして、顔を希玖から離す。彼女のさわやかな気配がふわっと離れて、冷えた夕暮れの空気の匂いに変わる。
「ブラックのコーヒー、初めて飲んだよ。めっちゃ苦かった」
「無理するから……」
思い切り顔をしかめたドロシーをたしなめる希玖。しかしドロシーは、すぐにその目を満足そうに細めた。そうすると、なめらかな彼女の顔は上質の日本人形のように、いっそう超然とした趣を宿す。そっと触れても、指紋さえ残らなそうで、何も彼女を汚せないのではないか、とさえ希玖は錯覚する。
「でも、ハマる大人がいるの、分かる気もするな。複雑で、奥深そうな感じ」
「ドロシーさん、大人の階段上っちゃったの?」
「一足お先にね」
おどけた声で言うドロシーの後ろから、小学生らしき子どもたちが駆け抜けていく。男の子は、大人よりもずっと生き急いでいるみたいに、とにかくどこまでも走って行きたがるものだ。
子どもたちの、そして希玖たちの行く手には、幼稚園の敷地が広がる。
道路に面した壁には、かつての幼児たちが描いた絵の複製が飾られて、通行人の心を和ませようとしている。子どもも大人も一緒くたに同じ大きさに描かれていたり、動物がやたらに黒かったり、太陽が画面の大半を埋め尽くしていたり、粗雑だけれどパワーに満ちた絵。
その絵の下には、子どもたちの名前が刻まれている。その中の誰かは、翠林の生徒になっているかもしれない。
「もしもさ、鶫さんの曲が、おっきな舞台で演奏されることがあったら」
暮れなずむ路上に投げかけるように、ドロシーは言う。
「誰かの記憶には、あたしの名前が残るのかな」
「……覚えてて欲しいの?」
「それって、なんか素敵じゃない?」
ドロシーの歩調が、すこしずつ軽くなっていくようだった。それとともに、彼女の声音もいっそうスムーズに、勢いをつけて転がり始める。
「それってきっと、今この時のあたしが、見知らぬ誰かにずっと覚えてもらえてる、ってことよ。ずっといっしょにいる友達が覚えててくれるのとは、まるで別のこと」
もしも彼女の両手が空いていたら、きっと両手でリズムを奏でただろう。ドロシーの手を塞いでいるカバンは、音楽の代わりのように、きびきびと左右に揺れている。
希玖は、早足になっていくドロシーを、半歩後ろで見つめている。黒くて長い彼女の髪と、たおやかなスカートが躍っている。
「早く聴きたいな、鶫さんの曲」
子どもたちの絵が並んだ壁の端、曲がり角の手前で、ドロシーは振り返った。
「おきくは? 聴きたい?」
「……うん」
あいまいに希玖はうなずく。ふと、自分の足がわずかに動きを鈍らせて、そこに立ち止まってしまいそうになった。うつむきかけ、しかし、微笑んでドロシーの顔を見やりながら、希玖は歩を進めた。
夕暮れの路上に、自分の影が残る。希玖の包み隠したい思いを地面に貼り付けて、置き去りにしようとするみたいに、影はひどく長い。
ほんとうは、『ドロシー』を、自分だけのものにしたいんだと思う。
いっそ、鶫に頼み込んででも、他のどこでも唄わないでいて欲しいとさえ、思う。
今この時のドロシーのことは、自分ひとりで覚えていたい。
けれど、そんなわがままな願望を口に出来るはずはない。だから、その形のない思いは、影の中に置き去りにしていかなくちゃいけない。
ドロシーの無邪気な笑みを追いかけて、希玖はまっすぐ歩き続けた。まだ定まらない歌声よりも、すぐそこにいる笑顔の方が、ずっと大切だった。
昨日投稿の19話から引き続き『ドロシー』にまつわるエピソードです。