第217話「ことばが醒めてるのと、心が盛り上がってるのは別の話だよ」
お客として歩く校舎内は、生徒としてのそれとはまた違った趣がある。ふだんは近づけない上級生の教室や、通ったこともない渡り廊下も、今日はなんら遠慮せずに飛び込んでいくことが出来る。
その先にあるのは、文化祭レベルの体験ではあるけれど、どれも新鮮で心が浮き立つものだ。
3年の運営するカフェで購入したクレープをかじりながら、宇都宮凛はホクホク顔だった。
「意外とおいしいね」
「お祭りで食べるものはだいたいおいしいんだよ。舌じゃなくて、盛り上がった気持ちで食べてるんだから」
斜に構えたコメントをしながら、真木歩は別の露店で買ったたこ焼きをほおばっている。とっくに冷めているだろうに、彼女は満足げに目を細め、もぐもぐと安っぽい味を堪能しているようだった。
「歩さんも楽しんでるんじゃない」
「そりゃ楽しいもん」
「にしては、ずいぶん醒めたこといってたね」
「ことばが醒めてるのと、心が盛り上がってるのは別の話だよ」
「そんなもんかな」
しれっとした歩の物言いにはなんだか釈然としないけれど、彼女らしい、といえばそうなのだろう。彼女の心のどこかには棚があって、気持ちとか、ことばとか、考え方とか、さまざまなものをうまく配分できるのだろう。
「歩さんの部屋、見てみたいな」
「何、やぶからぼうに」
たこ焼きに刺した楊枝を指先でくるりと回して、歩はふしぎそうな目をする。凛は、クレープの生地からこぼれ落ちそうになったミカンを、慌てて口で捕まえて、呑み込む。
「っと……いや、なんとなく。歩さんは、部屋をきれいに片付けてそうだな、って思って。そういうの得意そう」
「そんなことないよ。見た目はぐちゃぐちゃ。いちおう、自分でわかるようにはしてるつもりなんだけど、他の人には全然理解してもらえない」
「ふーん」
雑然とした部屋の中で、魔法みたいにてきぱきと必要なノートや衣服を取り出してくる歩の姿を、凛は思い浮かべる。それはそれで、彼女にふさわしい気がしてくる。結局、なんでもいいのかもしれない。
ざわつく廊下を、いつものような位置関係で歩きながら、凛は歩のすこし後ろから話しかける。
「次、どこ行こうか」
「凛さん、何か行きたいところある?」
「ん~、だいたい気になるものは見た気がするしなあ。おなかもいっぱいだし」
凛はクレープを食べきり、紙くずをそのままくしゃっと潰して制服のポケットに押し込む。ゴミ箱はどこもかしこもいっぱいで、捨てる余地はなさそうだった。生徒会か運営委員の誰かが回収しているのだろうけれど、作業が追いついていないのかもしれない。
いろんな場所が、飽和しつつあるようだった。
「どっかで体動かしたい? 運動部に乱入でもする?」
歩の提案に、しかし凛は渋い顔しか出来ない。
「期待できないなあ……うちの運動部のイベント、どこもゆるいし」
「いちばん体育会系っぽかったの、カルタ部だよね」
うなずき合って笑う。さっきカルタ部の大会をのぞきに行ったのだが、完璧に着物を着付けたふたりの女子生徒が対峙し、凄まじい速度で札を取り合う戦いぶりは、まさに畳の上の格闘技という様子だった。あまりメジャーではないが、翠林のカルタ部は隠れた名門らしい。
「だからって、私と凛さんでカルタ取り合ってもねえ。お正月のお遊戯でしかないし」
「まあ、体動かすよりは、どっかでぼんやり休みたいかな」
「賛成」
歩が差し出してきた手のひらに、ぽん、と凛は手を打ち合わせる。
「お客の入りが悪そうな、自主映画とか?」
「うちのクラスみたいなどうでもいい展示とか」
「開き直って休憩所にしちゃってるところもあるだろうし」
と、いろいろと案を出しては見るものの、凛はなんとなくしっくり来ないものを感じている。それらはいずれも、やっぱり祭りの範疇であって、どこかハレの気配が抜けないような気がする。
つまり、落ち着かない。
昼下がりのけだるい時間帯とはいえ、どこの教室のドアからも出入りは多い。人が行き来するたび、ドアの開け閉めする音がするたび、つい凛はびくりとしてしまって振り向いてしまう。
結局、この校舎の中では、何も休まらないような気もしてくる。だいたい、学校は休む場所ではない気がしてならない。
「ほんとうは、学校から抜け出しちゃえたらいいんだけど」
ぽそり、と凛がつぶやくと、振り向いた歩が目を細めて笑う。
「どこに行きたい?」
「どこ、といわれちゃうと思いつかないけど……とにかく、ふたりで、黙って座ってても良さそうなところ……」
「それって、今日じゃなくてもいいよね」
苦笑する歩に、凛は首を振る。
「今日にしか出来ないことなんて、別に、必要ないよ」
祭典の日、というのは、確かに楽しいものだけれど、それだけにどこか窮屈で、忙しない。1日か2日だけの出来事だから、懸命に体験しなくちゃいけない、と、どうしても気が急いてしまう。
背中を何かに押されているような焦燥感と、どこにも立ち止まれない不安感の、雁字搦めだ。
だから、ほんとうなら、凛は歩とふたりでどこかに行ってしまいたい。
何もない場所でもいいから。
しかし、歩のほうはまだまだ現世に執着のある俗人らしく、廊下の左右に視線を送りながら、肩をすくめている。
「そうねえ。そんなら、どっか学校の穴場みたいなとこ探したりとか」
「……穴場、か。でも、それこそ撫子組の誰かが占領してそう」
「恵理早さんとか、百合亜さんあたりね」
歩が遠慮なく名前を出してくるので、凛としても苦笑するほかない。それに、だいたい凛も同じことを考えている。狭い物陰で寝ている桂城恵理早も、涼しい裏庭で丸まっている三津間百合亜も、容易に想像できた。
そして、他のクラスにも同じような一匹狼や、あるいはカップルがいて、人目を忍べる場所を埋め尽くしていたりするかもしれない。
「……のぞいちゃうのも、いたたまれないしねえ」
「何想像してるの」
凛のつぶやきに、歩はちょっとあきれた顔をする。口元を押さえて、凛は顔を赤らめる。さすがに思考が先走りすぎた。
照れ隠しに、凛は歩の前に立ってとことこと歩き出す。
「ともかく、どっか座れるとこ探そうよ。あ、ほら、あそこの休憩所、マンガあるって」
「ただの漫画喫茶だよね、それ」
凛の早足と、同じくらいの速さで、歩はのんびりと彼女の後ろをついてくる。その足音は、どんな雑踏の中でも聞き分けられて、凛の心をほっとさせてくれる。




