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第216話「仲のいい、悪い、って、そんなに定量的に計れるものじゃないと思うわ」

 どんな忙しいイベントでも、ときにはぽっかりと暇になるタイミングが生まれる。

 そんな空白の時間帯を利して、舟橋(ふなばし)妃春(きはる)は生徒会室をでて、ぶらぶらと校舎内を歩き回ることにした。


 文化祭の当日は、朝から独特の賑わいが校舎を覆っていた。

 積極的に参加する生徒もそうでないものも、生徒たちは一様に浮き足立ち、どこか地に足が着いていないような雰囲気で歩き回る。外からの来訪者の方々は、普段かいま見ることもできない乙女の園の様子を物珍しげに観覧し、何でもない教室の一角までも何か貴重な美術品でも発見したような様子で見つめ、写真に収めたりしていた。

 総じてトラブルはすくなく、平和な催しだった。


 展示をざっと見回り、いくつか買い物をし、”ソロリティ”の一員らしくやけに歓待されたりしつつ、妃春は校舎内をしばらく歩き回った。

 そして、最後にたどり着いたのは、誰の目も届かない、校舎の裏庭のいちばん隅。花壇のあるあたりからさらに奥まった、薄暗くて静かで、どことなく湿った場所。


「……おわ」


 そこに、三津間(みつま)百合亜(ゆりあ)がいた。彼女はフェンス際に腰を下ろしてうたた寝していた様子だったが、妃春の接近に気づいて、ぽかんと口を開けて間抜けな声を発した。


「よく見つけたね」

「あなたのいそうな場所ぐらい、見当がつくわ」


 妃春はそういって、百合亜を真正面から見下ろす位置に立つ。大きな校舎の影になって、ふたりの姿は、薄暗がりのなかで解け合っていくようだった。

 いつも飄々としている百合亜の表情が、微妙なとまどいの色を帯びる。


「わたしに会いに来たの?」

「悪い?」

「もっと、ほかに仲のいい人がいるんじゃないの?」

「仲のいい、悪い、って、そんなに定量的に計れるものじゃないと思うわ」


 そういって、妃春はちょっと腰をかがめ、困惑気味の百合亜の顔を見下ろした。


「いまは、百合亜さんに会いたい気分だったの。うまく力を抜くには、それがちょうどいい気がしてね」

「わたしはマッサージチェアか何か?」

「そういったら座らせてくれる?」

「いやよ、重たいし」

「平然とそういう言い草をするところが、いいのよ」


 苦笑混じりにそういって、妃春は、その場にしゃがんだ。ひざを曲げ、両肘をその上に載せて、その場でアルマジロのように丸まってあごを二の腕の上に載せる。

 スカートの襞の向こうに、名も知らないちいさな草が揺れている。

 はふっ、と、気の抜けた声が漏れた。


「……子どもみたい」


 笑う百合亜に、妃春は半眼を向ける。


「ちっちゃいときでも、私、ここまで油断しなかったでしょう」

「そんなことないよ」

「うそ」

「ほんとだって。うちに遊びに来て、ひとりではしゃいで、あっという間に寝ちゃったりしてたじゃない」

「……記憶にないわね。百合亜さんの捏造じゃない?」

「妃春さんって基本的に負けず嫌いだよねえ……」


 あきれたように百合亜が首を振って、フェンスに背中を預けた。ぼさぼさの髪がフェンスにからまってしまいそうで、妃春は思わず顔をしかめる。引っ張ったときの痛みを想像すると、気が気ではない。


「後ろ、気をつけてよ」

「大丈夫。意外と引っかからないもんだから」


 百合亜の平然とした様子は、この裏庭の影の主という風情だ。

 文化祭の真っ只中で、大半の生徒は校舎内で何かしらのイベントに参加したり、友達と喋ったりしているだろう。けれど、こうして暗がりでひそひそ話をしている物好きだって、彼女たちの他にもいるかもしれない。

 上の階の窓から漏れてくる、楽しげな声の響きを、妃春は遠くに聴く。またとない時間を心行くまで味わう、少女たちの喜びの声は、いつまでもやまない雨のように降り注いでくる。


 けれど、そこからつかのま抜け出して過ごす時間も、同じくらいに意味があるはずだ。


 平穏な声を聞きながら、妃春はしばし、目を細めて押し黙る。百合亜も、目の前で同じような顔をしていて、いまにもその場で眠り込んでしまいそうだ。

 ふたりで雨の音を聞くような、ひととき。


「聖歌隊のほうは、調子どう?」


 ふと、妃春が訊ねると、百合亜はまるで他人事みたいに首をひねる。


「がんばってるんじゃない? まあ、文化祭は本番じゃないからもうちょっと先の話だけど」

「百合亜さんだって当事者でしょうに」

「わたしはおまけみたいなものだって。隅っこで小声で唄ってれば充分」

「おまけでしかない人なんて、舞台の上にはいないと思うけれど」

「それは理想でしょ」


 百合亜はあっさりとそう言い切る。妃春も正直なところ、自分のことばがきれい事過ぎるようには思った。そして、この手の耳に心地よすぎることばには、百合亜は敏感だ。

 それでも、間違ったことをいったとは思っていない。


「でも、そこにいるからには、手を抜いたりしないでよね」

「……それは、まあね。手を抜いたら、つづみさんに叱られちゃう」


 ん、と。

 かすかにうなずいて、妃春は勢いよく立ち上がる。しゃがんだ状態から、まっすぐな直立姿勢になるまで、ほんの一瞬だ。


「あれ、いっちゃうの?」

「私、百合亜さんほどヒマではないから。百合亜さんは明日まで寝ていたっていいのよ」

「夜になったら起きるよ……たぶん」


 当てにならないことをいって、百合亜はあくびをする。騒々しい校舎から距離を置いて、そんな悠々自適の態度でいる彼女の姿は、やっぱり猫に似ていた。放っておいたら、フェンスを乗り越えて逃げていってしまいそうだ。

 でも、彼女はちゃんと、戻るべきときには戻ってくるだろう。いいかげんではあっても、信頼を裏切ったりはしない。


 そう思うからこそ、妃春も、いっときの休息のためにここに来たのだから。

 彼女の疲れをうまく受け止めてくれて、何もよけいなことを訊かないものと、知っていたから。


「まあ、風邪を引く前に起こしに来るわ」

「いらないよ。どうせ、そのうちにどっかいっちゃうし」

「どこかに行ったら、その場所に探しに行くわよ。どこであっても、ね」


 そのくらいでなければ、この気まぐれな猫と、何年もつき合っていられない。

 理屈と事務とつじつま合わせの世界ではない、ふわふわで理屈も何もない世界。

 そういう場所にいる子だからこそ、百合亜は妃春の安息の地なのだから。


「……好きにすれば?」


 首を振って、百合亜は目を閉じ、うつむいた。それは彼女らしからぬ、照れの表現なのかもしれなくて、すこしだけ妃春は微笑んだ。立ち去り際にもらった、それは、一服の清涼剤だった。

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