第215話「お互いさ、ちょっと、強引だった時期もあったでしょ」
文化祭はもう間近に迫っていたが、1年撫子組はおおむね弛緩していた。クラス展示はさほどの準備もなく、慌ただしさや緊張感とはほど遠い空気が流れている。部活動や運営のほうでいろいろ取り組んでいる面々はいるものの、彼女たちの奮闘は教室の外の出来事だ。
だから、いくら文化祭という一大イベントであっても、無関係を気取っていればいつの間にか通り過ぎてしまう。
「もったいないような気もするんだよね……」
それでも、やはり、どことなく浮き立っている校舎内の空気にあてられたように、新城芙美はいまさらそんなことをつぶやいてしまう。下駄箱の前で西園寺るなと並んで、ふと、廊下のほうを見やると、せわしなく行き交う生徒たちの姿が目に入ってくる。彼女たちの充実した表情には、何か、いかにも青春という感じの輝きが浮かんでいるように思えた。
イベント直前、下校時刻の延長が黙認されるこの時期は、かなり遅くまで校内に生徒の姿が残るようになる。晩秋の釣瓶落としの夕刻に、篝火のように浮かび上がる教室の明かりと、そこを行き来する生徒たちは、薄皮一枚隔てただけの世界に広がる非日常だった。
そういうものへのあこがれは、まだ、芙美の心にも残っている。
「いっしょに見て回れたら、私はそれで十分だよ。芙美さんは不満?」
かたわらのるなは、すでに割り切ったような顔だ。カラフルなネイルで染め上げた指先で、そっと踵を持ち上げ、地面に置かれた靴に足を通す。背の高い彼女が、背中を丸めて靴を履く仕草は、それだけで、一幅の絵画のように様になっていた。
とん、と、るながつま先を打ち付けると、膝の上あたりでスカートがつかのま翻る。時間を止めて、写真にとどめておきたい、と、思いたくなる。
「……そうじゃないけど」
「こういうときにがんばる人って、前々からずっとがんばってた人だからさ。私たちはそうじゃないんだし」
「仲間に入る資格はないって?」
「というより、あの人たちほど、心底からは楽しめないと思う」
つぶやくるなの声も、すこし、寂しげに聞こえた。
彼女はその場に立って、首だけ芙美のほうを見返し、靴を履くのを待っている。芙美はいったんその場に腰を下ろして、片手で靴に足を押し込んだ。
立ち上がろうとする芙美に、るなが手をさしのべる。そんなに甘やかされる覚えはない、といいたくなったけれど、芙美はただ笑って、素直にその手を取った。
自然に、そのまま手をつないで歩き出す。
校舎を出たふたりの前から、足音が聞こえてくる。
よそのクラスの生徒たちだった。薄暗くてきちんと見分けられないが、その独特な貫禄は、たぶん3年生だろう。ふたりは自然と、彼女たちに道を譲って、脇に避けた。上級生たちは、芙美やるなのことなど目に入らない様子で、額がふれあうくらいの距離で、互いのことだけ見つめ合って、楽しげにことばを交わしている。
手にしたビニール袋から、飾り付けのマスキングテープの包み紙がはみ出していた。
動物たちが戯れあう、テープの柄が、芙美の目に強い印象を残す。
「ね」
ぎゅっ、と、るなが手を強く握ってきた。はっとして、芙美は一瞬るなの顔を見上げる。
彼女はしずかに笑って、前のほうへと目配せする。校舎からもグラウンドからもいくぶん離れ、外の明かりだけがうっすら届く校門は、こころなしか非現実的なたたずまいを醸し出している。
ふたりは並んで、門へと続く夜の色の道を歩き出す。
「あの人たちみたいになるには、それなりの時間が必要なわけ」
るなは振り返らずに、つぶやく。彼女を見上げて、芙美は聞き返す。
「……私とるなさんみたいに?」
「お互いさ、ちょっと、強引だった時期もあったでしょ」
「主にるなさんのほうじゃなかった、それは?」
「芙美さんだって」
じゃれ合うようにいって、同時に笑う。そういうタイミングが自然と一致するのは、いつのまにか、ふたりの呼吸がしっくりと合っている証だった。
いっしょに歩いている内に、歩幅まで同じになるみたいに。
くすくす笑いをおさめて、るなは一瞬、遠くを見やる。星のような光のまたたきが、彼女の瞳に映った。
「文化祭で何か成し遂げるのに、時間を使った子もいれば、ふたりで過ごすためにそうした私たちもいる。どっちも、ってのは難しいよ」
やさしく宥めるようなことばは、けれど、芙美の心を慰撫するためのことばに聞こえて、ちくりと胸が痛む。それは、不器用な芙美のためのことばだ。
るな自身はもっと要領よく、かろやかに、学生生活をこなせるはずなのに。
また、後ろめたい気持ちが襲ってきて、首を振る。
そんな芙美の気持ちを察してくれているように、るなは目を細めて甘い笑いをこぼした。腰をかがめ、芙美の耳元に唇を近づけて、ささやき声で告げる。
「私は芙美さんが好きだから、芙美さんのために使った時間を一瞬だって後悔しないよ。芙美さんも、そうして?」
「……わかってる」
そういわれてしまったら、芙美にはほかに返すことばもない。うつむきがちに、足下の暗い地面を見つめる自分の頬が真っ赤になっているのを、芙美は自覚している。
面白がるように、るながことばを重ねてくる。
「文化祭、私たちもいっぱい楽しもうよ。食べるとこも、遊ぶとこも、たくさんあるし」
「……うちのクラスの子たちのステージ、行く?」
芙美のことばに、るなはちょっと首をひねる。
「演劇は、たぶんめっちゃ込むよね……軽音部のほうが気になるかな」
「聖歌隊は?」
「それ選択肢に入る?」
「……そゆこというとつづみさんに怒られるよ。いや、ないと思うけど」
ひそひそ声でそういいながら、ふたりは、未だ明るさを残す校舎から遠ざかって、街の灯のなかへと歩いていく。




