第210話「怖いもの知らずって怖い、って思わない?」
「なんか、すっげ緊張した……」
「それはこっちの台詞よ。気が気じゃなかったわ」
お茶とお菓子をごちそうになり、お琴の演奏を聴き、すこしだけ指使いを教えてもらって、その女性の家を辞去した近衛薫子と内藤叶音は、ふたりとも頭を垂れて疲れ切った様子だった。
のろのろと昼下がりの道を歩き出しながら、叶音は口元に手を当ててちいさく咳をする。
「どうしたの、風邪?」
「のど渇いただけ」
「ずいぶんお抹茶いただいていたじゃないの。どうしたらあれで渇くわけ?」
緊張していた、というわりに、すでに薫子はいつもの堂々とした落ち着きを取り戻していた。叶音はじっと彼女の横顔をにらむ。
「かおさんにはわかんないよね。姿勢も態度も完璧だったし。お茶道の先生みたいなああいう手つき、どうやったら身につくのさ」
「あれは、子どものころからお稽古されているだけよ。叶音さんのほうこそ、ぜんぜん物怖じせずに話しかけるからドキドキしたわ。失礼するんじゃないかって」
「テンパりすぎると逆に喋るようになるんだよね。クセ」
「まあ、奥様も喜んでらしたようだし、結果オーライ、といえばいいのかしら。ご迷惑でなければよかったのだけど」
ふう、と薫子が長いため息をついた。叶音は、そんな薫子の様子をすこし意外に思う。今回に限らず、いつも、薫子は何事にも泰然と取り組んでいるように見えていたし、あまり緊張するたちではないと思っていたからだ。
「でも、そもそもあたしたちがお邪魔した時点で迷惑じゃない?」
「向こうから誘われたのだから、私たちが拒む筋合いはないわよ」
「いや、最初はかおさんが……」
半眼でつぶやく叶音のことばに、薫子は聞こえないふりをする。すこし早足で、右手の指先も落ち着かなげに前後に揺れて、リズムを刻んでいるように見えた。あるいは、先ほどの指導を思い出してでもいるのだろうか。
もとはといえば、薫子がまたぞろ写真の被写体を求めて路地裏に入り込んだのがいけなかったのだ。近頃、叶音は何度も薫子に誘われては、彼女のスナップ撮影につきあわされている。それ自体は楽しいのだけれど、今日は、それでトラブルになったのだ。
無人だと思いこんで通り抜けようとした細道で、年輩の女性と出くわしたのだった。
女性は、ここは自分の家の庭であると告げ、叶音たちをいぶかしんでいた。が、とっさに薫子が、自分の名前と学籍を明かし、知らなかったこととはいえ不法に侵入してしまったのを謝罪したことで、相手の態度はゆるみ、むしろ歓迎するような空気さえ醸し出すほどだった。
おそらく、彼女は退屈していたのだろう。すぐそばの自宅にふたりを呼んで、お茶菓子を振る舞ってくれた。薫子が礼を述べつつ、床の間の奥に据えられていた和琴に興味を抱いた発言をすると、女性は、十年ぶりぐらいだ、といいながら琴を奏で、薫子たちにもすこしだけ教えてくれた。その教えぶりは堂に入ったもので、ひょっとしたら教室でも開いていたのかもしれない、と思わせるほどだった。
そのあいだ、叶音はのべつ喋り続けていた。すっかりのどが渇ききったのをごまかすため、何杯もお茶をお代わりして、女性に笑われたものだったが、それすら気にならなかった。
そうして、午後の数時間を使い切ったふたりの帰り道。
薫子は満足げだけれど、叶音はなんだか未だに、背中に何かが乗っているような堅さが体に残っている。
「でも、叶音さん」
首を傾げる仕草で、薫子は叶音を見る。無邪気で子どものようにきらきらする黒い瞳に、疑問が浮かんでいる。
「どうして、琴、さわらなかったの?」
結局、女性にいくら勧められても、叶音は一度も弦に触れなかった。ネイルがはげちゃうから、などと冗談でごまかして、薫子と女性の交流を、部屋の隅で正座して見つめていた。
薫子の目線が、叶音の喉元に注がれている。叶音は目をそらし、苦笑ぎみにいう。
「別に。そこまで楽器に関心ないし。しかも和楽器とか」
「弾きたそうにしてたから、何度も声をかけたのに」
そうだった。演奏がとぎれるたび、薫子は叶音を誘い、いっしょに練習しようと持ちかけてきたのだ。その都度、叶音はちょっとずつ身を引きながら、薫子のことばを拒み続けた。おかげで、最後には、叶音の座布団は畳一畳分ほども移動していたものだ。
いまも、薫子と叶音の距離は、一歩分ほどよけいに離れている気がする。後ろから走ってきた自転車が、叶音の肘のあたりに、一瞬だけ風を残していった。
「……かおさんのこと、悪くいうわけじゃないけど」
ぼそりとこぼしたことばに、薫子は眉ひとつ動かさない。
「あんなに臆面もなく、初対面の人と喋ったり、教わったりできるほど、あたし、図太くないんだよね」
「肝心の所で及び腰よね、叶音さん」
ちょっと怒られるのを覚悟してのことばだったのに、対して薫子は、すこしも声を荒らげることはなかった。むしろ、叶音のほうがいっそう動揺させられたくらいだ。
前方から、道をいっぱい埋め尽くすような車幅のミニバンが接近してくる。薫子は、すっと叶音の肘に自分の腕をさしこんで、自分のほうに引き寄せた。よろけぎみに薫子にすり寄った叶音の肌に、彼女の気配がほんのりと触れる。涼やかな薫子の芳香は、まるで十数年かけてすりこまれた石鹸のように、肌に自然ととけ込んでいるようだった。
「この狭いのに、無茶するわね。カーナビ任せの旅行者かしら」
「道知らないふうだったし」
運転席のなかまでは見えなかったが、どこか自信なさげに前進とブレーキを繰り返す走りぶりは、明らかにこの道に不慣れな様子だった。そのうち、こすったり事故ったりしないか、ちょっと心配になる。
ああいうのを見ていると、叶音は、過剰に不安になるのだ。
「怖いもの知らずって怖い、って思わない?」
「だから叶音さん、冒険したりしないのね」
「かおさんが最近アグレッシブすぎんの」
近づいた勢いを利して、じっ、と、間近で叶音は薫子の顔を見据える。腕を組んだまま、叶音はきつく脇を締める。
そうして、薫子を手中に置き続けようとするみたいに。
恐れ知らずにどんどん踏み込んでいくから、ときどき、叶音は不安になるのだ。いつか、取り返しのつかない事故でも起こしはしないだろうか、と。
そうでなくとも、見知らぬ場所で、ぽつんと取り残されて途方に暮れるのではないか、と。
張りつめた叶音の目に、静かに、薫子の視線が刺さる。
「むしろ、叶音さんのほうが昔に戻ってるんじゃないの? 芙美さんに引っ張られてたころ」
一瞬、叶音は声をあげそうになった。けれど、発することばが思いつかなくて、そのまま口を閉じ、ちいさな咳をする。頬に触れる自分の指の、爪を彩るカラフルなネイルが、つかのま、色あせて見えた。
着飾って、髪を染めて、せいいっぱい成長したような顔をして。
結局、昔に戻ってしまっているのだろうか。
成長できていないのだろうか。
「……そんな、黙り込まないでよ。別に、悪くいうつもりは」
「うん」
薫子のことばを、右から左に聞き流しながら、叶音は首を振る。なんだか、今日は、頑是ない子供のように幾度となく首を振り続けている。このまま、自分はあっという間に赤子に戻ってしまうのかもしれない。還暦の後はただの赤ん坊よ、と笑ったあの女性のように。
成長も、完成も、かんたんなことじゃないらしい。
おなかがいっぱいで、どこかで休む気にもなれなかった。薫子を駅前まで送りながら、叶音は、いつまでも、彼女を捕まえておきたいと思った。
それが単なる子供のわがままみたいで、今日の叶音は、自分にすこしうんざりしてしまっていた。




