第208話「それって、この世界の流儀での約束?」
ひんやりと静かな朝の路地に、着信音が鳴る。メールなんて珍しいな、と思いつつ、棗沙智はポケットからスマートフォンを取り出して、発信者名を見て、ちょっと目を見開いた。
それはなつかしくて、すこし嬉しい名前だ。
「誰?」
隣を歩いていた小田切愛が、短く問う。すこし首を前に傾けて、あごの下からのぞき込むような彼女の目の奥から、圧力を感じたような気がした。
「友達、昔の」
「昔? 前世くらい?」
「どこの映画よ。中学のときに仲良かった子」
つぶやきつつ、沙智は足を止めた。メールを見ながら歩いたりしないようになったのは、翠林に入ったから、というより、愛の影響だ。彼女たち生粋の翠林生は、歩きスマホみたいな危なっかしい行為をしない。歩調を合わせようとすれば、自然と、体は大勢に馴染んでいく。
沙智はメールに視線を落とす。その文面を見つめて、彼女は思わず苦笑をこぼした。
「相変わらずだな……」
「何だって?」
ごく自然に、愛は沙智に訊ねながら。画面をのぞき込もうとするように、額をつき合わせるほどの距離に顔を近づけてきた。メールの内容に秘密があるのではないか、などとは思いもせず、話題を共有するのは当然だ、と疑いもしない。
沙智は、メールの画面をそのままにして、顔をあげる。
「学園祭、来たいってさ」
「へえ」
「まあ、いうだけだと思うけど。あの子、いつもそんな感じで」
「……ふうん?」
愛がふしぎそうな顔をした。固いものを呑み込んでしまったような、ことばの意味を理解しかねている感じの表情で、じっと沙智の顔をのぞき込んでくる。
沙智も小首をかしげて、愛を見つめ返す。
「そういうこと、ない? けっこう容易く口約束だけして、結局お流れ、みたいな」
「……覚え、ないな。一度した約束って、ちゃんと守るものなんじゃないの?」
「それ、何か堅苦しくない? 恐いような」
「約束破られるほうがずっと恐いし、破るのだってずっといやじゃない?」
じっ、と、互いの視線が衝突する。愛の瞳にはけがれも迷いもなくて、自分のことばを信じ切っている様子だった。
冷えた風が吹く。朝の秋空には、太陽はほとんど顔を出しておらず、空はほとんど灰色に近くくすんでいた。あっというまに、冬になる。
視線をゆるめたのは、愛のほうだった。
「別の世界に住んでたのかな、沙智さん」
「いいかたが大袈裟」
肩をすくめて、沙智はポケットにスマートフォンをしまう。メールの返信は後でもいいかな、と思いつつ、ひょっとしたら、このまま送信し忘れてしまうかもしれないな、とも思う。
歩き出すと、すぐに隣に愛がついてくる。
「でも、びっくりするよ。すぐ隣の街に全然別の文化が広がってるんだもん」
「翠林の子たちが特別なんだよ、たぶん。みんな、意外と約束なんて守らないよ」
「みんなって誰?」
純粋な声で問い返されて、沙智はさすがに口をつぐんだ。こういうときに”みんな”なんてことばを安易に使うと、すぐにしっぺ返しを食らう。
朝の通学路には、おだやかな歩調でしずしずと学校に向かう翠林生の姿が多い。この世界の中では、きっと、沙智のほうが移民のようなものなのだ。
もう、すっかり翠林に馴染んだつもりでいたのに、ふいにひどい孤立感を覚えて、心が冷える。
愛の視線さえ、痛みを感じさせるものに変わったように思えた。彼女の純朴な視線は、結局のところ、翠林の真綿に包まれたようなおだやかな世界で作り上げられたもので、外の世界にでたときに、耐えられないものなのかもしれない。
けれど、彼女が傷つくなら、それは、寒風吹きすさぶ世界のほうが間違っている。
「沙智さんは、裏切ったりしないよね?」
ほとんど無邪気なほど軽やかな声に、沙智は、胸が痛んだ。
「……大丈夫だよ。愛さんのことも、他の子のことも」
「うん」
かんたんに、愛はうなずくのだ。こんな居心地の悪い話をしている間も、彼女は沙智のことをみじんも疑ったりしない。
「それで、その友達、文化祭に呼ぶの?」
「どうかな、本人がその気でなきゃ、わかんないし」
ポケットの中のスマートフォンを、服の上から触る。丸い角の感触が指の腹を突いて、見えない圧力がじんわりと痛い。自然、制服の布地をぎゅっと握りしめる。仕立てのいい翠林の制服は、さらさらとした肌触りで、着用者の心を安心させてくれる。
身の回りが、すべて、優しいもので出来ているような感覚を、思い出していく。
「会いたい?」
「まあ、機会があれば」
「……そう」
「でも」
思わず、沙智は咳き込むように声を発した。愛の声が、何か、切迫しているように聞こえたせいだった。
「愛さんが会いたくないなら、別に」
「……私とも会わせたいっていうのは、また、違う話でしょ?」
あっけらかんといって、愛は白い歯をのぞかせる。
「秘密くらい、誰にだってあるものね」
「……そういうことは、あっさりいうんだもんねえ」
何だか、彼女にはずっとかなわないような気がして、沙智は首を振る。
ほんの些細な約束破りより、旧友との密会のほうが、よほど大事のように思えるのは、沙智の錯覚なのだろうか。実際、ただの友達には違いないのだけれど、愛に隠れて会うのはひどい罪悪のように思える。
だからといって、ほんとうに、翠林の学園祭に友人を呼んだとしたら、どうなるだろうか。
想像して、ふたたび沙智はかぶりを振った。愛を見つめて、そっとつぶやく。
「別に、愛さんが心配するようなことは何も起こらないけどさ」
「うん」
「……愛さんに隠し事なんてしないよ。それは、約束する」
「それって、この世界の流儀での約束?」
「翠林の生徒にふさわしい約束」
「うん」
ぱちん、と、シャボン玉がはじけるような、華やかな笑みだった。
愛は笑顔で、沙智のそばに一歩近寄って、その右手をぎゅっと握る。スマートフォンの尖った感触が、ぐっと強く手のひらに押しつけられたけれど、沙智はもう痛くも何ともなかった。
ただ、愛の手のひらの、しなやかではち切れそうな活力が、そのまま手の甲にしみこんでくるような気がして、その手が二度と離れて欲しくない、と願った。




