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第19話「唐突に、ふいに甘やかに」

「その曲、どこで?」


 鼻歌を口ずさみながら、家政科教室へと歩いていた佐藤(さとう)希玖(きく)は、横合いからふいに呼び止められた。

 振り返ると、そこには、すこし驚いたような顔の津島(つしま)(つぐみ)がいる。ギターケースを担いだ彼女は、普段の眠たそうな目を大きく見開いて、希玖の顔をまじまじと見つめていた。


「え、っと」


 希玖はぽかんとしてしまって、まともな返事ができない。廊下の真ん中に立ち尽くし、自分が何をしていたのか、改めて思い返そうとする。

 家政科部の活動の一環であるお菓子作りが意外と長引いてしまい、先生に活動時間の延長を報告しに行った。いつものこと、という感じで首尾よく許可をもらい、希玖は浮ついた気分で教室に戻るところだった。戻る頃には、ちょうどクッキーが焼きあがっているだろう。ひょっとしたら、先輩が先に食べ始めているかもしれないが、充分な量は残っているだろう。

 うきうきして、つい、鼻歌がこぼれた。

 その鼻歌を、鶫が耳にした、ということらしい。


「……どんな歌だったっけ」


 ほぼ完全に無意識だったせいで、とっさにメロディが出てこない。鶫の視線が胸に刺さり、変な緊張感で背中に汗をかいて、緊張でよけいに頭が回らなくなる。

 ああでもない、こうでもない、と首をひねる希玖。


 業を煮やしたように、鶫が口を開いた。


「こういう曲」


 そう言って、鶫は自ら、メロディを口笛で奏で始めた。

 一度聞けば耳に残る、わかりやすくて、それでいてどこか耳慣れない旋律だった。基本的にはメジャーコードで進行している明るい曲調なのに、時としてふいに、刀の切っ先のような細く鋭い高音が飛び込んできて、全体に緊張感をはらんでいる。


 Aメロからサビまでを、鶫は一気に歌い上げた。満足しきったように長く息を吐く。

 思わず拍手しそうになった希玖に、彼女はふたたび問う。


「どこで覚えたの?」

「……どうだったかな。なんとなく、どこかで聞いただけ。テレビかな?」

「そんなわけない」


 鶫は断言し、それから、一瞬だけ目をそらした。真剣で、力強くて、そんな自分自身に引け目を感じているみたいな、かすかな含羞。


「だって、それ、私の曲だから」



 鶫の疑問は、家政科部の活動拠点である調理室に戻ることで、あっさりと解けた。

 軽音楽部の部室である音楽室は、調理室の真上にある。一階にある調理室と四階の音楽室では距離があるように感じられるが、ふたつの部屋の距離は測ってみれば意外と遠くはない。

 そして、両方の部室で窓を開けてしまえば、互いを隔てるものは晩春のうららかな空気だけ。ふたつの部屋は、ある意味でつながっている、と言ってもよかった。

 音楽室で奏でられていた曲のメロディが、調理室の窓際で作業していた希玖の耳に入ってくるくらいには。



 クッキーと紅茶を相伴した鶫は、たいそう満足げだった。彼女と廊下を並んで歩きながら、希玖は、彼女がそんな清々しい笑顔を見せてくれることに驚いていた。教室では眠たそうにぼんやりしてばかりの鶫の、新しい一面を見た思いだ。


「今度、先輩にも持って行ってあげよう。また作る?」

「たぶんね。今度はスコーンとか、別のかもしれないけど」

「練習中につまめるんなら何でもいい。あ、でも飲み物はコーヒーの方がいいな」

「それはそっちで用意してくれる……?」


 家政科部の先輩は紅茶党ばかりだし、希玖自身はこだわりも発言権もない。さすがにそこまで鶫の主張に従うのは難しそうだった。

 鶫は肩をすくめて、冗談だよ、とつぶやく。野生動物みたいに荒々しく外側にハネた髪が、肩の上で揺れる。左側だけ高いところで結い上げているせいで、左右の髪が非対称に、シーソーでもしているようにぎくしゃくと上下していた。


「うちの先輩、ひとり、ブラックで飲む人とかいる。他はカフェラテとかばっかりで、その人だけ味覚おかしいんじゃないの、っていっつも言われてる」

「でもブラックコーヒーってかっこよくない?」

「ただのポーズじゃないかな。すごい顰めっ面してるし」

「後輩の手前、いいところ見せたいのかもね」

「先輩によけいに背伸びされても、すこし困るけど。身の丈でも、じゅうぶんかっこいいし」


 褒めてるのかどうなのか、希玖はおかしくて吹き出してしまう。


「鶫さん、そういうこと言うんだね」

「変?」

「ううん。鶫さんのこと、あんまりよく知らなかったから。同じクラスになるの、初めてだったよね」

「たぶん」


 ぼんやりした受け答えが、また面白くて、今度は希玖はちいさく肩をすくめる。日本人とはかけ離れたルックスの希玖と、同じクラスになったかどうか覚えていないなんて、ちょっとあり得ない。

 でも、鶫の口からそう言われると、妙に納得してしまうところもあった。彼女の声音には、何か、有無を言わせない強度のようなものがある。中等部のときに一度だけ説法に来た司祭が、こんな声をしていた。


 噂話で笑いあいながら、ふたりは教室まで戻ってきた。鶫は元々帰るつもりでずっと荷物を持っていたのだが、希玖につきあってきてくれたのだ。

 希玖は自分のカバンを机から回収して、ドアの前で待つ鶫に向き直る。


「おまたせ……」


 言い掛けて、希玖は、口を閉じた。


 鶫は、小声で歌を口ずさんでいた。さっき希玖が無意識に唄った、鶫の作ったという歌。

 希玖が唄ってもどこかずれて聞こえるのに、鶫の声になると、やけに心に刺さる。


 希玖は、カバンを両手で提げたまま、鶫を見つめて立ち尽くす。たそがれる教室の空気を裂いて、踊るように響く旋律に、自然、聞き入る。

 鶫の発する音色は、この曖昧な色によく似合う。輪郭の崩れかけた夕闇にとけ込んで、時に、ほんの一瞬だけ景色を鮮明に切り取る。そのリズムが心地よくて、ずっと聞いていたくなる。


 と、ふいに、鶫は旋律を途中で切り上げた。名残惜しい苦みが、つん、と、希玖の胸の奥を刺す。

 黙り込んで、すこしうつむいた鶫に、希玖は訊ねる。


「どうしたの?」

「……曲。ちょっと直したくなった。歌詞の方も」

「歌詞、もうついてるの?」


 家政科部の部室に聞こえた音の中には、歌詞は含まれていなかったと思う。すくなくとも、詳しくは聞き取れなかった。


「半分くらいできてるんだけど。もうちょっとはっきりさせたい」

「どんな歌なの、そういえば?」


 問いかけると、鶫はすこし唇をかんで、押し黙った。さっき、先輩の話をしているときにさえ見せなかった、それは、照れ隠しの表情のように見えた。

 希玖は、問うたことをすこし悔やんだ。ことばの意味を、根ほり葉ほり解き明かすことなんて、たぶん本人にだってできない。曖昧さを保つことで、きっと鶫は歌詞を作り上げている。どんな、なんて、かんたんには答えられないんだろう。


 その代わりに、希玖は別の問いを口にした。彼女の胸のもやもやを、ほどこうとするように。


「歌の題名は、何て言うの?」


 まだ題名はついてない、とでも答えてくれるかと思っていた。

 しかし、鶫は思いのほか決然と、その問いに答えた。


「『ドロシー』」

「え?」

「うちのクラスのあの子。彼女に捧げる歌、みたいなものかな」


 唐突に、ふいに甘やかに、鶫の声が響いた。

 ことばより、歌声より、何よりも鶫のその一言が、希玖の頭に焼き付いて、こだまして、離れない。

鶫とドロシーの経緯については第4話「あなたの耳には、いつも、そんなふうに音楽が聞こえてるの?」、希玖とドロシーの関係については第10話「ゆがんだまま冷えきった出来損ないの陶器」にて。

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